【車屋四六】ベレット誕生

コラム・特集 車屋四六

太平洋戦争が終わってからの日本の自動車開発、生産技術は世界のレベルからは遅れていた。もちろん戦前も後進国だったのに加えて、戦争中の五年間の空白が更に技術の遅れを加速したのである。

で、遅れを取り戻すべく二つの道を選んだ。独自技術での再出発がトヨタとオオタ。新参者がプリンス、たま自動車。それ以外は外国企業と提携、ノックダウンから国産化という道を選んだ。

乗用車業界最古参の日産はオースチン社と。乗用車で新規参入の日野はルノー、三菱は米ウイリス社。そしていすゞが英ルーツグループと提携して、ヒルマンのノックダウンから国産化にスタートしたのである。

ヒルマンのノックダウン第一号車が大森工場で完成したのは昭和28年=53年2月で、翌年の第一回全日本自動車ショーに出品して注目を浴びた。ちなみに、第一回ショーは、日比谷公園だった。

その頃、街では”真智子巻き”というファッションが流行っていた。日本中のオバサンを虜にしたラジオドラマ”君の名は”の映画化で、主演の岸恵子が冬のロケ待ちの寒さしのぎに、襟巻きで頬かむりしたのを見た監督が「こいつは面白い」と劇中で使ったのが、大流行の発端だった。

話は戻して、当時のヒルマン・ミンクスは1265㏄、37.5馬力。最高速度104km/h。米国の売れっ子デザイナー、レイモンド・ローウィーの手になるスタイリングが女性好みで、ソフトライドとあいまって裕福家庭の奥さん連中に人気があった。

ヒルマンの国産化で最新技術を学習したいすゞは、61年に独自開発の中型乗用車、ベレル2Lを発売。が、同時に1.5Lクラスの乗用車も完成していたのだが「小型はヒルマンが健在」という理由から、ベレルを先行発売したのである。

ベレル2000:クラウンより大柄で居住性が良かったが人気はサッパリだった。駒場コレクション:全車動態保存

その小型車が、63年にヒルマンの後継車で登場。ベレルより小型なのでベレットと名付けた。ベレルは六座席、ヒルマンは五座席のフォードアだった。サイズは、当時のコロナとほぼ同じである。 ホイールベースの割に小柄なのは、前後のオーバーハングが短かなこと、流行に逆行する丸みのスタイリングからの印象からだった。この姿は卵からのイメージで可愛らしさもあり、評判は良かった。このオーバーハングの短さは後にレース場で威力を発揮するのだが。

水冷直四OHVで1471㏄、63馬力/5000回転、11.2kg-m/1800回転。最高速度137粁。いすゞ得意のディーゼルバージョンもあり、四気筒OHVで1764㏄、50馬力/4000回転。4MT。

全長3995㎜、全幅1495㎜、全高1390㎜。ホイールベース2350㎜。車重915㎏(ガソリン仕様)。価格61.5~73万円。前輪Wウイッシュボーン/後輪ダイヤゴナルリンク型。タイヤ560-13。

姿ばかりか機構も斬新で、リアサスペンションのダイヤゴナルリンク型とは、リーフを横置きしたスイングアクスルで、多分日本での初採用だったと思う。

第10回東京モーターショーがベレットの初舞台だが、同時に登場して注目を浴びたのがベレット1600GT。翌年販売されると、スポーツマニアの人気者になり、レースで活躍を始めた。

晴海のモーターショー駐車場で良コンディションのベレット1600GT。切れの良いハンドリングでサーキットを暴れ回った

レースではラック&ピニオンのステアリングの切れの良さと、オーバーハングの短さとが相まって、気軽な回頭でレースにラリー、ジムカーナで人気者になるのである。