【車屋四六】敗戦国の自動車が人気抜群

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昭和20年代後半、大臣高級官僚会社重役達が乗るのは絶対的にアメ車だった。また中小企業経営者、裕福個人向け中小型は英国車が主流。が、それを上回る人気者がドイツ生まれのオペルとフォード。敗戦国の車が戦勝国英国車人気を上回るのが不思議だった。

今でこそ日本はドイツ車大好きだが、当時BMWの知名度はなく、54年にフラッシュサイドボディーに生まれ変わったベンツを、ヤナセが扱うようになって僅かに走り出した頃である。

WWⅡ以前のGMは、独オペルや英ボクスホールのように現地企業を買収して勢力拡大をはかったが、フォードは日本フォードと同様、100%自己資本で世界に拠点を作っていた。

で、GM系列の新車は各国で独自開発されたが、フォードは本国コントロールの結果、ほとんどが米国フォードのミニチュア版という傾向にあった。言うなればデトロイト風スタイルである。

戦後日本で断トツ人気のオペル・レコルトとフォード・タウヌスにも同じ傾向が見られる。いずれにしても、ジェット戦闘機イメージのデトロイト流フラッシュサイドボディーが売りだったが。(写真トップ:独逸フォード・タウヌス12M。日本人憧れのアメリカナイズされたフラッシュサイドボディーのせいか人気抜群、プレミアム価格で飛ぶように売れた)

そんな流儀で開発の欧州フォードは、ドイツではタウヌス、フランスではヴェデット。英国は輸出奨励戦勝国らしく品揃え豊富で、プリフェクト、コンサル、ゼファーなど。

さて、独フォードもオペル同様、WWⅡ中の爆撃で壊滅的工場被害を受けたが、戦前の39年型で再出発。50年輸出再開。ライバルのVWと戦いながら52年には戦前の年産5万台水準に戻る。

そして登場したのが戦後開発のタウヌス12M。泥よけ(フェンダー)が消えた斬新なフラッシュサイドボディー。顔の真ん中には、49年型米フォードで世界が注目のジェット吸気口が、小型化されて鎮座していた。

が、スタイリングは斬新だが、見えないエンジンは戦前型のまま。もっとも金食い虫のエンジン開発は戦勝国でも後回しで、アメリカでも55年型頃までは戦前型を良く見たものである。

12Mは直四サイドバルブ、ボアストローク63.5x92.5㎜は戦前の典型的ロングストロ-ク型。圧縮比も低めで6.2、1172㏄、36馬力/4250回転(7.6kg-m)という性能。

全長4060㎜、全幅1580㎜、全高1550㎜、ホイールベース2489㎜。車重850㎏。サスペンションは本国と同じ戦前からの伝統横置きリーフスプリングから、Wウイッシュボーンに進化していた。最高速度を112km/hと発表。

52年誕生のタウヌス12Mは、55年にマイナーチェンジ。日本には53年頃から輸入されるようになる。輸入元は千代田区永田町のKK十番街モータースで、記憶では100万円程だった。

が、軽く100万円と云っても、当時の大卒初任給100ヶ月分ほどだから、庶民には全く無縁のもの。ラーメン30円、ビングクロスビーやドリスデイの78回転シェラック版レコードが300円の頃の話である。

12Mの誕生は日本では昭和27年。戦後7年目。電気洗濯機登場、戦中からの砂糖統制撤廃、ガソリン統制も撤廃。NHKオンリーから民放12局体制と、徐々に敗戦からの立ち直りが感じられた頃だったが、俗に云う”血のメーデー”など世の中改革の名の下に騒然とした時代でもあった。そして”火炎瓶”などの流行語まで生まれた。

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