【車屋四六】見目うるわしきフロリード

コラム・特集 車屋四六

ルノーは日本でも有名。日産自動車を傘下にいれて親分はカルロス・ゴーン。彼はルノー&日産、両社の親方。最近では敏腕ぶりを発揮してダイムラー、ルノー、日産、三社提携で話題を呼んだ。

そんなルノーが日本で名を知られるようになったのは、WWIIが終わって8年目、乗用車市場進出を狙った日野自動車が、提携でルノーの4CVをノックダウンした時からである。

ルノー4CVからコンテッサへ。乗用車屋で順調に成長するかに見えた日野自動車が、突如乗用車市場から撤退、トラック専業に戻る。トヨタとの提携で棲み分け区分が決められたからで、惜しまれる撤退だった。

問題のルノー4CVは、46年のパリサロンでデビュー。日本輸入は昭和30年頃。当時日本は外貨不足で乗用車輸入禁止だが、たまに欧米から少量輸入されて抽選販売をした。

クラスメイトの西村元一の父親は自動車工具商の国際自動車興行社長で、応募した4CVが抽選に当たった。確か96万円だったと記憶する。

日本人のルノーの歴史は4CVからだが、フランスでは1899年創業の老舗中の老舗だ。当初ルノーは自動車を造るつもりなど無かったが、画期的発明の特許が切っ掛けでの自動車会社設立だった。

「内燃機関の発明はドイツだが、育てたのはフランス」とフランス人は自慢する。論より証拠、FR=エンジン前置きで後輪駆動というシステムを考案したのはエミール・ルバッソール。

そしてルイ・ルノーの特許の一つは、シャフトでの後輪駆動。二つ目はトップギアで直結になるギアボックス。それまでは、革ベルトとプーリー、チェーンとスプロケットギアの組み合わせが多く、どちらも切れやすい、ベルト型は摩擦ロスが多い、チェーンは油をハネ飛ばす、で嫌われていた。

ルノーの新ギアボックスは、バックギアも内蔵する画期的なもので、前進三速のトップが直結になると、摩擦が減ってパワーロスを防ぎ、騒音も低下した。

ルノーの発明の魂胆は特許を売って儲けることだったが、父親の友人がその試作車に乗ったら、具合の良さに惚れ込んで強引に買いとってしまった。

当然、親しい仲間に自慢する。と、乗った連中も感心して、ルノーに注文が殺到した。で、仕方なく、ルノーは自分で造ることを決心したのである。

やがてルノーはフランス第三位メーカーに成長。WWIIでは大きな被害を受けるが、連合軍がパリを解放すると、ルノーは投獄されてしまった。

会社の存続を願う一心で、ナチに協力したのが逮捕理由だった。親方を失ったルノーを救ったのはドゴール大統領。ルノーは国有企業として再生し、大ヒット作4CVが誕生する。

この4CVで、ルノーは日本でも有名ブランドになる。その後、フレガート、ドーフィン、ゴーディーニと、優れた乗用車で輸出も順調なのに、何故か日本市場では鳴かず飛ばずで、忘れられていった。で、VWの輸入権を失ったヤナセが乗り出すまでエージェントが転々と変わって、鳴かず飛ばずの時代が続いた。

写真トップのフロリード・カブリオレも、輸入量は僅かだが、美しく愛嬌を振りまきマニアの目を楽しませてくれた。デビューは58年のパリサロン。スタイリングはピエトロ・フルアだが、カロッツェリア・ギアに在籍中の作品である。

59~62年まで生産された車の全長は4246㎜、全幅1579㎜。車重745㎏の軽量仕上げ。直四OHV・845㏄50馬力と3MTで130km/h。当時のエージェントは霞ヶ関のタバカレラで、試乗記をモーターマガジンに書くために、車を受け取りに行ったのを覚えている。

チューリッヒの街角で撮影のフロリード:後ろから見ても美しい。オプションだろうか、ハードトップを装着している

とにかく姿が綺麗だった。刺激的加速感はないが軽快なハンドリングが楽しく、路上で多くの視線を浴びるのも嬉しかった。四輪独立懸架らしくしなやかなロードホールディングだったが、調子に乗ると、RRらしき突然のオーバーステアに見舞われこともあった。

ロードテスト中、牛久沼名物鰻丼で元気が出たのか、帰路の急カーブで危なく飛び出しそうになり、冷や汗をかいたのも今では懐かしい想い出として残っている。