【車屋四六】木製乗用車の贅沢

コラム・特集 車屋四六

RVという言葉が日本に定着したのは90年頃のこと。R=レクリエーショナル、V=ビークルの頭文字、言うなれば”遊び車”である。20世紀も終わりに近づき日本経済は頂点に達していた。

食べるのがやっとの敗戦直後から10年を経た頃は、オート三輪、商店のトラックやバン、そんな車でも仕事がなければ遊びに使えて、羨ましく見ていたものである。

が、生活が豊かになるにつれ仕事と遊びは区別され、スポーツカー、スポーティーカー、キャンピングカー、RVとエスカレート、用途により車を使い分けるという贅沢が育った。

さてRVとは、荷物運び用ワンボックス、軍用特殊作業用の四輪駆動車などから進化した車を指しているが、日本ではステーションワゴンも範疇に入れていた。

このワゴン、80年代まで日本では人気がなかった。というより乗用車市場では市民権を持たなかった。バンからの延長で商用車兼用という臭いが嫌われたのだ。クソも味噌も一緒というやつだ。

一方、当時アメリカでのワゴンは、多用途性に優れた使い勝手で人気が高く、販売価格も乗用車より高いから「欲しいけれど買えない」という高嶺の花でもあったのだ。

日本ではワゴンだが、発祥のアメリカではステーションワゴン。広大な大陸では、日本のように、その日の物はその日にというような買い物方式はしょせん無理な話。食料にしろ、日用品にしろ、一週間分、十日分とまとめ買いをする。そして家族の旅行やピクニックでは荷物がたくさん。長旅で快適な広いキャビンと共に、大きな荷室も必要なのだ。

アメリカでステーションワゴンが量産されるようになるのは、WWⅡ以後のことのようだ。国土無傷の勝利国らしく豊かになり、収入も増え、高価なワゴンが買えるようになったからだろう。

進駐軍の敗戦処理が一段落して、家族が来日するようになった昭和23年頃から東京の路上でワゴンを見かけるようになった。写真トップは40年型シボレー・ステーションワゴンだが、戦後再開型はほとんど変わらぬ姿だった。

GM、フォード、クライスラー他、各社のも皆こんな姿をしていた。下請けがセダンを改造する時に、生産量が少ないからボディーは大工が手仕事で仕上げた。だから高価なのだ。

ワゴンのための改造の後半部は木製で、ベニヤのパネル補強に必要な木骨は、室内空間を稼ぐために外に貼り付けた。それが、いつの間にかステーションワゴンの定番姿になってしまったのだ。

 

…と、Car&レジャー紙にこの記事を書いた92年頃には思いこんでいたが、後に間違いだと判る。ある日、ステーションワゴンのルーツは、と手元のブ厚い資料を探したら、最初の量産ワゴンはフォード。それもWWⅡ以後ではなく戦前の1927年だった。

調べてみたら、少量生産だからベニヤ木骨というのではなく、初めからデザインされたものだった。そして戦前すでにフォードは「ウッディーワゴン」なる名称で売り出している。それも高値で。

木製ワゴンの評判は良く、30年代に入るとGMも、そして開戦直前にはクライスラーもというように増えていった。もっとも、ほとんどのメーカーに出そろうのは戦後からだが。

が、戦争中ジープで儲けたウイリス社は、戦後も特殊需要の他に、レジャーにも販路を広げたが、人気のワゴンを木製で造らず、プレス鉄板で仕上げた。三菱ジープでもお馴染みだが、こいつが鉄製ワゴンの最初である。

28年型シボレー:ステーションワゴンというより人員輸送用だと思う。いずれにしても、こんな車が原型となったのだろう

その後、手間とコスト高の木製は、先輩各社も止めてプレスになるが、木の味が忘れられず木目を貼ったり、塗装でそれらしき演出をしたりして、長いこと造られていた。

東京ミッドタウンは、戦前は陸軍第一歩兵連隊。敗戦で米軍第八騎兵師団になり返還されて防衛庁になる。そこから歩いて5分の元龍土町に近代国立美術館があるが、其処は第三歩兵連隊で、戦後はアメリカ憲兵隊司令部、そして青山墓地側は星条旗紙というように、私が住む麻布界隈は米兵がウヨウヨという環境だから、最新型乗用車を見るには事欠かなかった。

ある日、木製ワゴンではなく、木製のセダンやコンバーチブルを見た。実に格好良かった。ちなみに47年型シボレーワゴンの生産台数は、通常の乗用車25万9672台に対し、ワゴンは僅か4912台。シボレーユーザーには高嶺の花だったのだろう。姿もエンジンも戦前型で、直六3.6リットル90馬力で3MT。

クライスラーのウッディーコンバーチブルに乗る機会があった。車体が捻られるとドアとボディーの間に指が入るほどの隙間が開いたり閉じたり、日本の悪路を走ると木製独特な軋み音が賑やかだったのが懐かしい。

クライスラー木製コンバーチブル:木製の魅力はこんな所にまで。高級車だけに素晴らしい仕上がりだ