【車屋四六】マツダ キャロル360

コラム・特集 車屋四六

写真トップは昭和36年=1963年5月4日の鈴鹿サーキット。第一回日本グランプリ・ツーリングカーレース、CⅡクラス・400㏄~700㏄以下のパドック風景である。(日本グランプリ(鈴鹿)のパドックに並んだツーリングカークラス参加車。キャロル600やスバル450、三菱500、パブリカ)

本来キャロルは360㏄だから、CⅠクラスなのだが、排気量が大きな上位クラスで挑戦。このクラスではスバル450や三菱500、そしてパブリカが対戦相手だった。

何度も紹介済みの“メーカー関与せず”の紳士協定を守ったマツダは不利、水面下で準備万端のパブリカが、1,2,3位独占という、まさに順当な結果で終わった。

これに懲りたのか、第二回GPはCⅠクラスに挑戦。後にロータリーエンジン使いの名手と謳われる片山義美が乗るが結果は出せず、優勝はスバル360大久保力、二位スバル360小関典幸、三位スズライト望月修だった。

大久保は元バイクライダーだが大久保彦左衛門の血を引くという経歴の持ち主。小関は富士重工車両開発実験部に在籍。望月はその後三菱に移籍して活躍しながら開発実験部に在籍、ジャーナリストとしても執筆活動、私も良く一緒に取材した。

さて、マツダが乗用車市場進出の足がかりとして開発したR360クーペは、上々の人気とは裏腹に、2+2という部分がライバルと戦うには不利で、それをカバーするために登場したのがキャロル。

登場は55年。特徴はR360と同じRR=リアエンジン・リアドライブ。クリフカットと呼ぶリアウインドーの形状が斬新で、人目を引くアピールポイントだった。

キャロル360のサイドビュー。リアのクリフカットが斬新で印象的

もっとも、この形状はキャロルが元祖ではなく、既にイギリスフォードのアングリアやシトロエン・アミなどで知られ、後にアメリカフォードのマーキュリーも採用した。この形状は、フォード勢にとってはスタイリング上の手法だったようだが、アミでは居住空間の拡大目的のようで、キャロルの場合も正にそれ。で、軽自動車にしては予想外な居住空間を生みだしていた。

当時のマツダはエンジンに金を掛ける会社で、アルミだったり、キャロルでは何と四気筒。それを横置きに搭載していた。358㏄は回転馬力指向のオーバースクエア型で、当時としては感心する10という高圧縮比で、18ps/6800rpm、2.1kg-m/5000rpm。二気筒2サイクルが常識の軽自動車の中にあって、マルチシリンダー。加えて4サイクル独特な滑らかなエキゾーストノートは、他の軽自動車を圧して、高級感を演出していた。

四速型変速機は、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ速がシンクロメッシュだから、シフトのアップ&ダウンでダブルクラッチを踏まずにすむのも、軽自動車の平均的腕前のドライバーには嬉しかった。最高速度は90キロ前後が実力で、当時としては高水準。

英国フォード・アングリアのサイドビュー。後部ウインドーのクリフカットがキャロルにそっくり

キャロル360の誕生は62年だが、それから8ヶ月ほどすると同じ姿の600を追加する。が、登録車市場では人気が得られずに、二年ほどで市場から消えていった。

第一回日本グランプリのツーリングカーCⅡクラスに出場したのは、このキャロル600だったのだ。

キャロルが登場した63年には、クラウン二代目RS40、フェアレディ1500、三菱ミニカ、スズライトフロンテ360、プリンススカイライン・スポーツなどが登場した。

63年=昭和37年とは、東京が世界初1000万人都市に。ファイティング原田世界フライ級チャンピオン。堀江謙一世界初ヨット単独太平洋横断。国産旅客機YS-11完成。流行語は”家付きカー付きババア抜き(女の結婚願望)。TV人気は”鉄腕アトム・てなもんや三度笠・スチャラカ社員”。唄は”はいそれまでよ・恋は神世の時代から・いつでも夢を”。うどん蕎麦35円の頃だった。