【車屋四六】ランボルギーニは世界初のミドシップ

コラム・特集 車屋四六

フルッチョ・ランボルギーニは農家の息子だと何かの本にあった。第二次世界大戦中は空軍に在籍、戦争が終わり故郷に帰っても、家業を継ごうとはしなかった。

彼には商才があったようで、終戦で不要になった軍の余剰機械の放出を手に入れて、農業機械の製造を始めた。イタリア農業は戦争で荒廃、食料不足だったから事業は成功した。

やがてトラクター製造で財をなした頃、フェラーリを買い込んだ。彼は工科大学卒の車大好き人間。買ったフェラーリに満足できず、フェラーリ社長に会見を申し込んだが、返事はなく梨のつぶて。

「俺の車は世界最高・素人が何を云うか」てなことだったろう。返事がなければ造ればいい、と理想的スポーツカーの開発に着手、ランボルギーニ誕生というが、真偽のほどは判らない。

いずれにしても、世界中のどのGTよりも優れた車を造ろうと決心したのが1962年、46才の時。もちろん仮想敵がフェラーリだったことは云うまでもない。

64年登場の最初の車は、ランボルギーニ3500GTと名付けられた。フェラーリと同じV型12気筒だがDOHC。フェラーリはまだOHCだった。四輪独立懸架でもフェラーリに差を付けていた。

前年ジュネーブショーのプロトタイプ360馬力は、市販時に320馬力になったが、ウエーバーWチョークキャブ六連装3464㏄DOHCとZF5速MTのコンビは、260キロのスピードを確保していた。

「フェラーリより静かでスムーズ」と専門家やユーザーの評価を得て、ファンの輪が拡がっていった。もちろん、材料も加工も、フェラーリより上等、丁寧に作り込まれていた。なのに、フェラーリより少々安い価格設定も、ライバル意識の表れだった。

取り敢えず、ランボルギーニ3500GTは成功した。で、65年トリノショーに登場の次なる作品は、ランボルギーニならではのコンセプトで実現された、P400である。

ランボルギーニ・ミウラ:タイムトライアルに顔を見せた日本人コレクターの愛車

翌66年トリノショーでP400は、市販品としてミウラの名で登場。日本人はミウラを三浦と勘違いするが、実際にはスペイン名物の闘牛で、最もどう猛な牛の種類だと説明された。

もっとも有名な香水ゲランの”ミツコ”が、オーストリー貴族に嫁入りした日本娘の”クーデンホフ光子”からという例もあるから、間違えるのも致し方ない。

ミウラは、大馬力の市販GTとしては世界初のミドシップ型で、フェラーリの365GT4BBより、5年も早い登場。4リットルV12DOHCをミドシップに搭載して最高速度は290キロに達し、ライバルのフェラーリやマセラティを上回った。

幸いなことに、ミウラが登場した66年のトリノショーを偶然取材していた。初めての海外取材だったので、写真をモーターマガジン誌や日刊自動車新聞で発表した。

私がミウラの美しい姿に見ほれていたのを、同行の広告会社重役のビアンキーニが憶えていたようで、二度目にローマに行った時に、試乗車を借りてきてくれた。

早速、アウトストラーダに飛びだした。速度制限無しの高速道路でアクセルを全開すると、シートに背中が押し込まれて、アッという間に速度計の針は、250㎞近くにハネ上がった。

当時の日本は、全国最高速度制限が60キロ。若気の至りでちょくちょく100キロオーバー、たまには150キロもあったが、250㎞を超えると正直うろたえ気味だった。

66年というと日本では昭和41年、サニー、いすゞベレル、スバル1000、マツダルーチェ、カローラ、ダイハツフェロー登場の年。中国では文化大革命・ベトナム戦争激化・日本は大学紛争・ビートルズ来日・国鉄初乗り運賃20円の頃だった。

ランボルギーニ・カウンタック:スーパーカーブームの頃、箱根小涌園の展示会場で