【車屋四六】ミニはオバケの優等生

コラム・特集 車屋四六

子供の頃に目を輝かせて聞いた魔法使いのお婆さんも、中学生になる頃には疑問を持った。何百年も生きているのに「何時までも年を取らずに若いままなのだろうか」と。

BMWになる前の昔のミニを見るにつれ、そんなイメージがダブってくる。ミニはこの世に生を受けたのが59年。そして消えたのが2000年。ということは41年間という脅威的長寿を保ち、その間に530万台を世に送り出したのだ。

たくさん造ったから、今でも街で見かけるが、未だに可愛らしいと思うし、綺麗でもある。云うなれば”永遠の美少女”。まさか、魔法使いのお婆さんではないだろう。

20世紀末の”センチュリー・オブ・ザ・イヤー”を憶えているだろうか。選ばれたT型フォードは誰でも知っている。で次点は、と聞くと答えに詰まる人が多い。答えは”ミニ”である。

WWII後のイギリス自動車界は淘汰の波にもまれ続けた。ミニも例外ではなく、ババ抜きでミニを手にしたBMWは、ミニを昔の面影を残しながら、小さなプレミアムカーに変身させた。

ローバー社時代のカタログに”リトルブリテン”と誇らしげに書いてあった。けだし名言だと持うが、ジョンブル的発想をたたえたのか、がめつく外貨を稼ぐ優等生だったからなのかは判らない。

もっとも、ミニ開発の親分イシゴニス博士は、女王様から”サー”の称号まで戴いたのだから、ミニは女王様にとって孝行者だったことは確かなことである。

イシゴニスは、48年発売のモーリス1000も手がけ、それが150万台も売れるという実績の持ち主だから、二人も孝行者を誕生させたと云うことになる。

ミニの開発はイシゴニスがモーリス社在籍中に始まったが、モーリス社がオースチン社と合併してBMC社になったので、檜舞台に登場した時にはオースチンセブン、モーリスミニと命名された。

オースチンセブンは、世界的大衆車として成功した車だから、その縁起にあやかろう魂胆だったのだろうが、好評でミニの名が一人歩きを始めたので、いつの間にかオースチンミニと呼ぶようになっていた。

空前のヒット作となったミニらしく、たくさんのファミリーが生まれた。その家族とは、オースチンミニ、モーリスミニ、ミニクーパー、BLミニ、インチェンティミニなど、どれも同じ姿だ。

また姿を変え少し高級感がある、ライレイエルフやウーズレイホーネットは、ユーザーニーズに応えてトランクをプラスしたスリーボックス型。また如何にもレジャー指向なミニモークという変わり種も家族である。

ツーボックス型ミニにトランクを付けたスリーボックス型ライレイエルフの後ろ姿

さてミニ開発のコンセプトで、アレック・イシゴニスが描いた理想の大衆車とは”トコトン無駄を省いた小さなボディーに最大限の居住空間の車を安く造ろう”だった。

そんな車の発想は、どうやらイシゴニスの青少年時代を反映しているようだ。満足な教育も受けなかった貧乏な家庭環境の中で、いつか貧乏家庭でも買える乗用車を造ってやろうと思ったと云う。

で、実現したのが貧乏丸出しのようなミニ。産声を上げられたのは時代のタイミングに上手く合致したからだ。56年のスエズ動乱で石油危機。一度は没にしたミニ企画に、BMC会長レイナード卿がゴーサインを出したのである。

全長3025x全幅1400x全高1330㎜は、日本の軽自動車より少し幅が広く、全長が短いという超ミニサイズ。が、ホイールベースが2035㎜と長いことで居住空間の広さは予想外だった。

また小さなエンジンルームに四気筒を突っ込むために、エンジンの下に変速機をドッキングさせてコンパクト化、という離れ業をやって世界の注目を浴びることになる。(次回に続く)

効率的空間利用を示すカットモデル。典型的メカミニマム・マンマキシマム+トランク室

※スエズ動乱:第二次中東戦争とも。56年エジプトがスエズ運河国有化宣言→運河の株主イギリスとフランス反発→アラブ諸国と紛争中のイスラエルをけしかけてエジプト攻撃→英仏が仲裁名目で介入→更に軍事介入するも国連の調停でスエズの権利を放棄。スエズが止まれば石油が無くなると燃料が高騰した。

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