【車屋四六】プラスチックのスポーツカー

コラム・特集 車屋四六

スポーツカーの本場ならヨーロッパだ。WWII以前からのスポーツカー王国イギリスを中心に、ドイツ、イタリー、フランスなどから、軽量級、重量級、さまざまな車が世界中に輸出されていた。

何度も紹介したように、WWIIで戦場にならずに国土無傷のアメリカでスポーツカーが走り回る。その発端は、ヨーロッパに派兵された米軍兵士軍属が、帰国時にスポーツカーを持ち帰ったのが始まりのようだ。

そんな連中が楽しそうに走り回るのを見れば、戦争に行かない連中も欲しくなり、スポーツカーファンの輪が拡がる。生来陽気でお祭り好きのアメリカ人がスポーツカーを持てば、競争が始まるのは当然で、全国で本格的レースや草レースが始まった。

50年前後、人気の顔ぶれはMG-TD、ジャガーXK-120、トライアンフ、ポルシェ356などで、少し遅れてジュリエッタシリーズ登場のアルファロメオ、オースチンヒーレイなども主役となる。

いずれにしても、アメリカでスポーツカー人気が高まるにつれ、アメリカ人は疑問を持った。「我が国は世界一の自動車生産国なのに自前のスポーツカーが一台もないじゃないか」と。それまでも富豪が道楽で造ったり、物好きがガレージで造ったり、というようなスポーツカーはあったが、大メーカーが量産するスポーツカーは無かったのだ。

ある程度のボリューム確保が予測されれば動き出すのが大企業で、早速腰を上げたのが世界一の自動車メーカーGM、そしてフォードだった。

待望のアメリカ製スポーツカーが登場したのは53年で、シボレー・コルベット。当時の米軍キャンプに行くとコルベットではなく「コーベット」や「ベット」と短縮呼びする人も居た。

待望のアメリカ製コルベットは、二座席なのにヨーロッパ勢とはまるで違って大柄なのが特徴。さらにボディーがプラスチックだったのに世界が注目した。アメリカ初の樹脂製自動車だった。

北京で買った自動車雑誌に載っていたコルベット50年を称える広告。樹脂製フロアパンを片手で差し上げ軽さを強調

その頃のアメリカは、科学、化学、全ての面で世界のリーダーだからこそと感心もしたが、実はプラスチックボディーは初めの数百台で、その後は常識的なスチール製になる。

価格3500ドルは、輸入のヨーロッパ勢よりはかなり格安で、加えてパワーグライド型ATもチョイスできたから、レースはやらないツーリング好きのスポーツカーファンにも歓迎された。

当然のように可能な部品はシボレーの流用だから、エンジンは直列六気筒ロングストローク型OHV。235.5キュウビックインチは日本式なら3860㏄。YH型ストロンバーグキャブレター三連装で、150馬力/4200回転という性能。
いまなら150馬力しか無いの、ということだろうが4リッター近いエンジンの低速トルクは太く、豪快な加速に喜んだものである。当時のアメリカには五速型変速機が無く四速MTが標準だったが、不満を言うファンは居なかった。

ちなみに、市場ニーズで直ぐに追加のパワーグライドATは二速だが、間延びしたシフトだった。が、スポーツカーでツーリングという希望がかなって、オーナーは満足していた。

初代のスタイリングは、56年のマイナーチェンジでサイドがえぐれて精悍さを増し、エンジンも年々馬力を増して、63年のフルモデルチェンジでスティングレイになる直前の62年型では、5232㏄V8で360馬力を誇った。

マイナーチェンジのフェイスリフトでボディー側面がえぐれ、顔つきも精悍になった

ちなみに、この頃の値段は4083ドルで、年間1万4531台が出荷されている。この初期型は日本にも数台が輸入されて、当時売れっ子のウエスタン歌手小坂一也が乗っている姿を、六本木で見たことを憶えている。

日本のウエスタン音楽は進駐軍と共にやって来た。私の記憶で草分けは黒田美治(元男爵)。最高は飲み友達でもあったジミー時田。家が近くの麻布狸穴で喧嘩した事もある寺本圭一、また小坂一也も一流だった。小坂は成城学園高校生時代に進駐軍キャンプ廻り。52年ワゴンマスターズ結成、歌手として一世を風靡、紅白にも3回出場→58年松竹と契約して俳優になり、映画TVで大活躍。80年頃息子が「あの人歌唄えるの」と聞いたほどの役者だった。

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