【車屋四六】アメリカ全盛期のオールズモビル

車屋四六

“栄枯盛衰は世の習い”は兜町を表現するのに丁度良い言葉だ。数有る証券会社の大手大和証券、そして中小の証券会社が整理合併吸収を繰り返し、外資も進出して、現在に至っている。

淘汰時代が始まる昭和30年頃、丸五証券という老舗があった。そこの社長の長男栗原は大学の後輩で、慶大馬術部だから学生時代から面識があったが、特別に親しい間柄ではなかった。

ある日、彼が瀬田治郎から聞いたと云って、カブトオートセンターに愛車の修理にやってきた。瀬田も馬術部出身で彼とは同期という関係である。

当時瀬田はヤナセ勤務なのに、真っ赤なMG-TDを、どうやら会社に内緒で乗っていた。が、その後脱サラして、航空貨物取り扱いの会社を興して成功。ヤナセの新車内覧会で会ったら「今度は買う身分になりました」と誇らしげに云った。

戦前(WWII)に”目玉のまっちゃん”の名で親しまれた尾上松之助という歌舞伎の名優が居た。栗原は、その名優の孫だというので驚いたら、有名な淺草”雷おこし”が親戚だという。

「姉の嫁入り先で」ということだが、その雷おこしの穂刈社長にアメリカ車を世話して欲しいという。で、何時も通り赤坂界隈を探して見つけたのがオールズモビル88型の56年型だった。(写真トップ:常磐堂に納入したのと同型のオールズモビル88型フォードア・ハードトップ)

世の中狭いというか、人の繋がりは続くもので、そのオールズを持ってきたセールスマン久保泰も、法政大学馬術部OBだった。で、話してみると、共通の知人友人がたくさん出てきたのに驚いた。

56年というと、50年前後から始まったアメリカのジェット戦闘機のモチーフも進化していた。オールズも吸気開口部の大きな顔。ボンネットの上にはロケット機のマスコットが乗っていた。

流行に沿い拡大中のでかいアメリカンボデーは、フォードアなのにピラーレスのハードトップで、大きなラップアラウンド型フロントウインドーと共に、如何にもアメ車を誇示していた。

ブルーとホワイトのツートーンカラーが美しかったが、残念ながら機械の調子が悪く、結果として穂刈さんには迷惑を掛けてしまったが、入れ替えで納入したフォードが快調だったから、申し訳は立ったと思っている。

オールズモビルは、GMの中で、最上級キャデラック、ビュイック、そして三番目に位置する車でスポーティーが売り物だった。更にポンティアック、大衆車のシボレーという順。

戦前オールズは、直列六気筒と直列八気筒だったが、50年にサイドバルブから新しいOHVに変わり、90度バンクV型八気筒のみという構成になった。ロケットエンジンがエンジンの商品名。

オールズは斬新機構に貪欲で、38年にアメリカ初のAT搭載。そのハイドラマティックATは、ビュイックのダイナフローATやシボレーのパワーグライドATを押しのけて、後日GM全車に搭載されるようになる。

当時のオールズは、88、スーパー88、98と3シリーズ。88のホイールベース3100㎜、全長5140㎜に対して98は、それぞれ3200㎜、5394㎜と差があった。

自慢のV8は5410㏄で、88用はキャブレターがダウンドラフト型ツーバレルで230馬力、98用はフォーバレルで240馬力だが、その240馬力を搭載したスーパー88の加速は並大抵ではなく、今ならさしずめGTなどの名前が付けられたことだろう。

トップモデルの98型フォードア・セダン。88よりホイールベースが長く装備豪華

98の装備は豪華で、パワーウインドー、パワーステアリング、パワーシート、パワーアンテナ付自動選局ラジオ、エアコン、電気式時計など、当時としても飛びきり上等だった。

とにかく、この頃からの10年ほどが、世界のトップを走る全盛期のアメリカ車であった。やがてベトナム戦の泥沼にはまり込むほどに、デザインも品質も低下して、信用を失っていった。アメリカ車至上の日本市場でさえ、同じ道をたどったのである。

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