【車屋四六】グランプリには裏方も大勢

コラム・特集 車屋四六

紆余曲折の後、JAFの要望に合わせて、急ぎ完成したFISCOで開催の第三回日本GPレースのメインイベントは、各社が工夫を凝らしたプロトタイプの戦いとなった。

注目はプリンスR380とポルシェ・カレラ6の一騎打ち。それに華を添えるのが、コブラ427、ダイハツP3、そしてジャガーXK-E、ロータス・エリート、アバルトシムカなど。

フェアレディが何か力んでいなかったのは、直後に日産とプリンスの合併が控えていたからだろう。また耐久レース型のトヨタ2000GTは実力テストくらいな気持ちでの参加だった。日産vsトヨタの熾烈な戦いが始まるのは、第四回日本GPからである。

さて、レースでは、車とドライバーだけがクローズアップされるが、実は裏方として目立たない大部隊が控えている。大会組織委員会をトップに、審査委員会、特別規則作成委員会、コース審議会、大会事務局など。

さらに、競技執行役員として、競技長、技術委員長、計時委員長、パドック管理委員長。そしてその各部にたくさんの委員が働いている。もちろん専門の各自公認ライセンス所持が必要。で、華やかなドライバーを支えて競技を支える役員達の数は、総勢300人前後も必要なのである。

ちなみに私の資格は計時一級、A級ドライバーライセンス。JAFスポーツ委員会資格審査委員としてFISCOや船橋サーキット造成中の審査、ラリーやレース、ジムカーナの審査委員長、そしてGPなどの特別規則書作成委員なども務めた。

第三回日本GPの名誉総裁は高松宮宣仁親王、名誉副総裁運輸大臣中村寅太、通産大臣三木武夫、静岡県知事、FIA会長。名誉大会会長川又克二(日産社長)といった顔ぶれだった。

この大会で私は計時委員。計時委員長は本間誠二(現RJC会員・時計業界では有名なマイスター)。FISCOの計時室はコントロールタワー三階。一見高みの見物だが、実は孤独で辛い仕事なのだ。

表向きの計時実務は、スタート二分前の合図から始まる。スタート後は、各車一周ごとの順位と時間を記録するが、間違い厳禁だから緊張の連続が必要。で、スタート直前から終了まで、ドアをロック、外部とは隔離された状態になる。

コースが仕事場のコース委員が「雨に濡れなくて羨ましい」と云うが、当時エアコンのないガラス張りの部屋に20~30人ほどがひしめけば、暑い季節は熱気むんむん、冬期はガラスが曇ると暖房無し、当時は実に辛い業務だった。

第三回日本GPの計時委員:レースが終わって記念写真。右から二人目が筆者

レース中、業務以外の会話は厳禁。初めの頃だった、ヘアピンの事故を目撃した委員が「アッやったー」と叫び、つられて正面の記録担当が振り向いた時に、何台かがコントロールラインを通過した。

当時の小さなレースではストップウオッチだが、FISCOには光電管式自動記録プリンティングタイマーがあるのだが「だんご」と呼ぶ、何台かが一塊だと記録は一台分。で、目視で順位を付けタイムを整理していたのである。

以来、私語厳重禁止、事故を見ても声を出すな、事故は一人で楽しむこと、と決まった。

さて、レースが終わると片づける仕事がある。各車周回毎の順位とタイムを表にする。これが大変。まだ電卓登場前、もちろんパソコンなど未知の時代だから、手回しのタイガー計算機で、レース終了後暫くは、チン・ガリガリ・チンガリガリと、ベルとギア音が賑やかに鳴り響くことになる。ちなみに計算機は特注。時間、秒は10進法だが、分が60秒で1分だからである。(第五回日本GPでは特別規則作成委員に:こんなワッペンをブレザーのの胸に付けていた)

浅草橋人形の久月の横山さんや、家業が商人という委員には「この方が早い」と、算盤の委員も居た。とにかくレース終了後30分ほど、計時室のやかましさは並大抵ではなかった。

そんな騒ぎも昔話。今は車毎に発信機を持ち、ライン通過を自動記録、コンピュータが表を作成するのだから楽なもの。しかもドライバーはピットと無線電話で会話し、車の状態も逐一ピットに表示されるのだから、科学の進歩とはおそろしいものである。