昔 “ビートルズエイジの車たち”という雑誌が自動車専門誌”くるまにあ”から出たことがある。私も一文を書いたが、要は1960年代の内外の注目車を拾ったものである。
ビートルズが結成されたのは60年8月。ジョン・レノンと小野洋子が所帯を持ったのが69年3月。そしてメンバー四人揃っての最後の”アビーロード”のレコーディングが69年9月だから、ビートルズは60年代をフルに使って活躍したわけだ。
60年代は、日本のモータリゼーション黎明期と合致する。日本に大衆車時代が始まろうとする直前の63年、第一回日本グランプリが日本で唯一開業したばかりの鈴鹿サーキットで開催されて、日本のモータースポーツ熱が点火した。
レースは技術の向上にも繋がり、高性能車が量産化で安くなり、マッカーサーが四等国と云った日本が、自動車生産国で世界の一流へと突き進み、やがてはアメリカを脅かす事になろうとは、誰が予測しただろうか。
60年代後半は日本の新車ラッシュ時期で、サニー、カローラ誕生、ほかにスバル1000、コルト800、ギャランGTO、ブルーバード410、コロナ1500、スカイラインGT、シルビア、コンテッサ、フェアレディZ、コンパーノ、チェリーX1、ファミリア、ホンダN360、ベレットGTR、フローリアン、フロンテ800、マツダR360クーペ、キャロル360、そして真打ちがトヨタ2000GT。
50年代、日本人は国産車を馬鹿にして乗らなかったが、そんな時代があったことすら嘘のように国産車は成長していた。
が、裕福人種御用達の輸入車人気は相変わらずで、モータースポーツ熱の点火で、涎が垂れそうなスポーツカーもたくさん輸入されるようになった。
当時、サーキットに顔を出す常連は、ジャガーE、トライアンフTR3&TR4、ミニクーパー、ポルシェ356&911、ACコブラ、アルファアバルト、ルノーゴーディーニ、ルノーアルピーヌなど。レースには顔を出さなかったが、アストンマーチンDB5、ボルボP1800、ランボルギーニなどの輸入も、この頃である。
さて本題に入ろう。レース場で人気が高く、街乗り姿も眩しかったロータス・エランの誕生も、62年のこと。世界でも、この時代はライトウエイトスポーツカーの全盛時代だった。
ロータス社の創立は52年だから、ヒーレイやリライアント、TVRなど共に、先輩が並ぶイギリス自動車業界では新参者的存在。もちろん老舗が雁首を揃えるヨーロッパの中でも同じこと。
イギリスでも前述したスポーツカー以外に、MG、ブリストル、シンガー、モーガン、ダイムラー、オースチン、マルコスなど、スポーツカーがゴロゴロとしていたのである。
さて新参ロータス社だが、レース大好き人間のコリン・チャプマンの会社創立は、勝つための車を造ることだった。しかも裕福でないスピードマニアに提供できる、安価なスポーツカーを。
誕生したロータスセブンは、取引税を払わずに済むキット販売で好評。波に乗るロータス社はF1グランプリにも参入し好成績を上げる。
そんなロータス社が、これぞ理想のスポーツカーとして完成したのがロータス・エランだった。
全長3689㎜、全幅1421㎜。トヨタ2000GTが開発時に手本にしたといわれる、強固な鋼板製バックボーンフレームに被せるボディーがFRP製。これで、僅か680㎏という超軽量を実現して見せた。
1558㏄ツインカムにウエーバー・キャブレター二連装で105馬力は、レース用では140馬力にアップして、猛烈なダッシュ力を見せて、観客を楽しませてくれた。
当時レースに出る車のサスペンションは硬いのが常識。が、スパルタン仕上げのライバルに対して、軟派仕上げ。四輪ディスクブレーキと特殊なサスペンションは、非常識に柔らかいが、そのしなやかさでロールしながらも地面をグリップして離さないことで、素晴らしいコーナリングを演じて見せてくれた。
日本では、サーキットの常連となり、一クラス上くらいなら苦杯をなめさせる場面が幾らでもあった。エラン使いでは浮谷東次郎を忘れることは出来ないが、強く印象に残るのは、滝進太郎である。