【車屋四六】XK-120参上

コラム・特集 車屋四六

支那事変から太平洋戦争へ→広島と長崎の原爆投下で戦争が終わった昭和20年8月15日の翌日、ボーイングB29爆撃機もノースアメリカンP51戦闘機も飛ばない青空は、昨日までのうるささとは打って変わって静寂、それが妙に不安で、不思議な気分だった。

それからの日本経済は混乱貧乏のドン底は当然。それから三年ほどを経た48年でも未だ最悪の状況。東京には、空襲の焼け跡のバラックに暮らす人達が未だたくさん居た。

「日本は四等国だ」日本占領の親分マッカーサー元帥の記者会見発言にカチンときた。一方、自由主義とやらで御法度のエログロ解禁。田村泰次郎の小説”肉体の門”が映画化されたりした。

連合国といってもアメリカ主導の占領政策は、日本の骨抜きを図ったようで、天皇制維持を許し、貧しく腹が減った日本に食料物資など経済援助と合わせて、いろんな政策改革を押しつけ実行した。

善悪はともかく、国民全員が参加できる総選挙、六三三制教育制度、男女共学などは問題なしにしても、”勝てば官軍”の例えどおり、戦犯の軍事裁判などは酷いものだった。

「木の根の食事は捕虜虐待」で死刑宣告は、我々なら喜ぶ”ごぼう”を食事に出した兵隊にだった。そうした一方的裁判の頂点が、極東軍時裁判。もし立場が逆なら、原爆投下を許したトルーマン大統領、無差別爆撃実行のカーチス・ルメイなど多数が”デスbyハンギング”だっただろう。

在米日本大使館が英語のタイピングに手間取る対米宣戦布告文を、米国は優れた暗号解読機で事前に知りながら「非道な不意打ち」と真珠湾攻撃を伏せた米政府中枢も居たのに、全てが勝者の論理で進む裁判で東條英機以下七名の絞首刑実行は、48年12月だった。

話が大分脱線したが、もちろん進駐軍の政策には良いこともたくさんあった。また政策ではないが、良い置き土産もたくさんあった。

我々には良き置き土産の一つに、モータースポーツがある。それはそれとして、戦勝国として豊かさを謳歌するアメリカに対して、同じ戦勝国ながら英・仏・蘭は経済復興で悪戦苦闘していた。

英国は裕福なアメリカからのドル稼ぎ優先で輸出優遇。その中に自動車があった。で、近未来的姿の流麗なスポーツカーが誕生したのも48年だった。

当時の常識では未だ角張ったラジェーターグリル、泥除けと呼んだフェンダーとステップのMG―TC&TDのようなロードスターがスポーツカーだったから、突如登場した、近未来的姿のスポーツカーには世界が驚き、注目した。

48年登場のジャガーXK-120のインパクトは強烈だった。時代の最先端を行くアメリカでさえ、フラッシュサイドボディーのフォード登場は、一年あとの49年である。

プロポーションもさることながら、マニアの驚きはエンジン。ボア83㎜、ストローク106㎜と低速トルクを稼ぎやすいロングストローク型の直列六気筒3442㏄が、なんとDOHC、イギリス流に云えばツインカムだったのである。

ヘアピンを上手に交わしたXK-120。オフリミットの米軍飛行場に入っただけで日本人は嬉しかった

フェラーリでさえSOHCの時代に、DOHCなんてものはレーシングカー専用で、高級スポーツカーといえども高嶺の花だった時代だ。SUキャブレター二連装のエンジンは二種類。ガソリンが上質な先進国向けは圧縮比8.1で180馬力、後進国向けが7.1で160馬力。残念ながら日本向けは160馬力だった。

最高出力が5000回転は「さすがDOHC」で、回転計は5500回転からがレッドゾーン。四速MTで最高速度201km/h、ゼロ100加速10.0秒、ゼロ400加速17.0秒が自慢の性能だった。

前輪ウイッシュボーン+トーションバー、後輪半楕円リーフ+リジッドアクスルでFR。大径タイヤは600×16。ヘッドランプの三本スポークで支えた反射鏡が強烈な印象だった。

革張りのシート、磨き込まれたローズウッドのインテリアトリム、がっちりとしたステアリングホイールがスチールの四本スポーク。如何にも精密機器という感じのスミスの計器類は、ブルーの間接照明で目が疲れない。

とにかく最新と思っているアメリカのエンジンよりも、1000回転も上まで回るジャガーのツインカムにビックリ憧れたものである。

流麗なXK-120に跳びついたのは欧州在留のアメリカ兵達。裕福なアメリカ人には値段も手頃だった。で、人気はアメリカにも伝わり、大量に輸入されて、地方の草レースでもワンメイクレースが開催できるほどになっていった。

1958年頃のカリフォルニアで開催のSCCAのレース。確か飛行場だった。前方からジャガーXK-120二台に、ヒーレイ100