【車屋四六】FIA公認・第三回日本グランプリレース

コラム・特集 車屋四六

長ったらしい表題は、1966年富士スピードウェイで開催のグランプリレースの正式タイトルである。第142回で、プリンスR380とポルシェ・カレラ906の戦いの場となったGPである。

さて、第二回GPで二位ではあったが、数周ポルシェに先行したことで名を挙げ、市販が決まった”瓢箪から駒”のプリンス2000GTがどうなったかを、プリンスファンは案じているはずだ。

が、心配無用。カテゴリー違いだからGPレースには出場しなかったが、ツーリングカーレースの、1600㏄以上のクラススリーにエントリーの15台が、全部プリンス2000GTだったのである。

20周で争われるツーリンカークラスは、クラスワン、クラスツーと混合で走るのだが、クラスワンの優勝は三崎清志のホンダS600。クラスツー優勝が朝岡重輝のベレット1600GTだった。

さて問題のクラススリー出場のプリンス2000GTだが、優勝は(当然総合優勝も)須田祐弘。他に上位入賞の、杉田幸朗、殿井宣行、古平勝等などは、プリンスファクトリーチームのベテラン達である。

コントロールタワー三階の計時室からの写真(トップ写真)は、ゼッケン43が須田、45杉田。ちなみに次の二列目のフェアレディ1600ゼッケン23は白石春太郎、ゼッケン24辻本征一郎(後に日産レーシングスクール校長)。

ついでに三列目を説明すると、トヨタS800ゼッケン5は北原豪彦、トヨタS800ゼッケン6大坪善男、ゼッケン7MGミゼット(外国人)、トヨタS800ゼッケン8高橋利明の面々。

写真には写っていないが、クラスツーにはフェアレディで高橋国光が、ロータスで中村正三郎(後に衆議院議員、環境庁長官)が、ベレット米村太刀夫(元いすゞファクトリー、元日本自動車評論家協会会長)も出場している。

計時室からはヘアピンが丸見え。ロータスエランが膨らんだ隙をついてフェアレディ1600、トヨタS800,ホンダS800が駆け抜けていく

日産ファクトリーの家老格田中健二郎ブルーバードR411(元ホンダ二輪ファクトリードライバー)、そして同じくR411に長谷見昌弘。コロナSで梅沢文彦(現新橋十仁病院院長)もエントリー。

将来を待望のいすゞのドライバー、永井賢一が30度バンクからとびだして、富士スピードウェイ最初の犠牲者となったのも、このツーリングレースだった。

一方、ホンダS600でエントリーの寺田陽次郎は、後にマツダロータリーエンジン車で、ルマン24時間レースに優勝したドライバーである。

近頃では女のレーシングドライバーは珍しくもないが、当時22才の美人青木紀子は珍しい存在で、男に引けを取らぬ戦績の持ち主だった。後に朝岡重輝と結婚して残念ながら離婚する。

とにかくレースでは、たくさんの人に出会い、その人達のその後の活躍も眺めてきた。滝進太郎はタキレーシングチームを結成、外国からのビッグマシーンで活躍。またトヨタvs日産の戦いに絡んで、TNTバトルと呼ばれてファンを楽しませてくれた。後にJAFスポーツ委員長に就任。

ジャガーで活躍した安田銀次は実業家で、日本の税務署を手玉に取ってから出国、ラスベガスで事業を興し、自家用ジェットで活躍と、風の噂に聞いた。

コブラ427でエントリーした三保敬太郎は、本業のジャズ界では有名人で、銀座赤坂などで遭遇するとピアノを弾いて楽しませてくれたが、ある晩六本木のクラブで死んだと後になって知った。

とにかく、第三回日本GPのあった昭和41年とは、サニーとカローラの登場でマイカー元年と云われる年。20世紀最小の出生率記録は丙午(ひのえうま)の年だったから。ビートルズ来日で、世は正にエレキブームで、年寄りが眉をしかめていた。が、ミニスカート流行には笑顔満面だった。

ツーリングカーレース:筑波サーキットでのデッドヒート

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