高性能エンジン造りなら日本一と自負の、プリンス自動車が惨敗したのは第一回日本GP。翌年、悔しさの中に完成のプリンス2000GTに第一回の覇者トヨタは勝ち目がない事を知ると、最新のポルシェカレラ904を空輸、プリンス勝利を阻んだ話は既に紹介した。
プリンスとポルシェの闘いは更に続く。第二回目は鈴鹿サーキットで。そして1966年の第三回は、前年総工費25億円で完成したばかりの富士スピードウェイだった。
第二回ではポルシェに負けたが、2000GTの好評で商売では勝利したプリンス自動車は、第三回では真っ向からポルシェに闘いを挑んだ。四台のプリンスR380とそれを操縦する、生澤徹、横山達、砂子義一、大石秀男は、当時一流の闘士達だった。
が、今度の相手は黒子的トヨタではなく、プライベートの滝進太郎のポルシェカレラ6。で、観衆の本音は「まさかプリンスが勝つわけはない」だった。このクラスは、他にジャガーXK-E、デイトナコブラ、ロータスエリートなど、どれもが世界の一流。加えてトヨタ2000GTvs日産フェアレディも興味の的だった。
当時私は計時委員で、コントロ-ルタワー三階に陣取っていた。ポールポジションのフェアレディを抜いてスタートでトップに躍り出たのはトヨタ2000GT、そして後続の一団が、逆落しで有名な30度バンクに消えてから、しばしの静寂が訪れた。
やがてタワーからヘアピンに雪崩れ込む一団を見て「オーッ」と思わず声が上がった。トップ集団が何とR380。両車、2リットルで210馬力だが、僅か570㎏という軽量で世界のポルシェという先入観から、下馬評では誰もがカレラ6必勝と思っていたのに。
結果は、プリンスの作戦勝ちだった。スタートダッシュが効くギア比にチューニングしたようで、スタートと同時に四台がポルシェの前に。そして誰かがポルシェをブロックしている間に、本命を先行させるというものである。
で、その誰かは百戦錬磨の生澤、先行逃げ切り役が砂子だった。が、俊足カレラ6のブロックでかなりな無理がたたったのか、生澤のR380はトランスミッション破損。邪魔が消えたカレラ6は持ち前の性能で、トップに躍り出た。
これでレースの決着はついた、と誰もが思ったが、そうは問屋が卸さなかった。(江戸末期に生まれた諺=当時、物の値段は問屋が決めるので買い手の望み通りにはならない=そうはいかないの意)
やがて燃料給油の時が来るのはどの車も同じこと。滝のカレラ6はこの給油時間が約50秒だったが、R380の方は15秒。カレラ6は常識通りのポリタンクからの給油だが、さすがファクトリーチームのR380は、重力差利用の専用タンクを開発、ということは結果的には高さを利用しての圧送ということだった。
この35秒差は、魔の給油タイムであった。カレラ6がピットインした時、R380との間に35秒差はなく、先にピットをとびだしたのはR380、当然トップの座を奪い返した。
が、じっくり追いかければまた追い越せたのに、滝は焦り、それが運のつきだった。60周レースの42周目、速度に乗りすぎた最終コーナーでコースアウト、クラッシュでドラマが終わった。
本命リタイヤで、当然のようにR380のワンツーフィニッシュ。優勝砂子、二番大石、意外だったのが三位トヨタ2000GT細谷四方洋の入賞だった。
当時観客の大部分はレースに詳しくなくトヨタ2000GTの期待は大きかったが、専門家、特にトヨタ自身が入賞など思っても居なかったのだから、三位入賞はフロックであり、万々歳だった。
その後の活躍で判るが、トヨタ2000GTは耐久レース向きに開発されたから、加速もトップスピードもR380より劣っていた。が、耐久レース向き燃費の良さで瓢箪から駒が出たのだ。スプリンターのカレラ6やR380より、耐久型2000GTの給油回数が少なかったのだ。
プリンス自動車は三回目にして念願を遂げたわけだが、これがプリンス自動車の日本GP最後のレースになった。GPのあと、日産との合併が発表されたからだ。
期せずして日本トップの開発技術を手にした日産は、第四回からはトヨタをライバルとして、熾烈な闘いを開始するのである。