【車屋四六】最初のマイカー

コラム・特集 車屋四六

慶応大学を卒業した1956年(昭31)頃は就職難で、慶応航空部長の佐藤豪工学部教授の紹介で共栄開発(株)に就職。初出社の日、鬼瓦が眼鏡を掛けたような顔の総務部長からウヤウヤしく手渡された辞令が毛筆で、給料金九千三百円也と書かれてあった。

9300円は当時でも安い方で、学友で一番は中学から一緒の有馬扣己。キヤノンの初任給は1万4000円。まことに羨ましかった。

共栄開発は、三年後に私(怠け者営業部員)が脱サラしたのが幸いしたのか、ユニックと名を改めて上場会社となるのだが、私が入社当時は未だ発展途上、戦後の不況の中で頑張る会社だった。

工場は羽田空港近くの森ケ崎。勤務先営業部は丸の内。今は懐かしい赤煉瓦ビルのカビくさい半地下に在った。

自転車操業の会社で、たった一台の社長専用車は、進駐軍払い下げの中古のジープ。でも専属運転手付き。当時はそれで銀行に行っても問題はなかった。ある日、社長の使いでジープに乗った。それが安月給で眠っていた浮気の虫の眼を覚ますきっかけとなる。

昭和28年頃、親友小野澤忠男が仲間と横浜の解体屋から36年型デソートを買い、レストアして日吉のキャンパスを乗り回しているのが羨ましかった。ある日先輩が、壊れた38年型シボレーを「欲しければやる」というので貰って修理した。悪戦苦闘のすえ、直六3.6リットルが目覚めた時の嬉しさは今でも忘れられない。

で、ボロでも楽しかった想い出が、ジープに乗って甦った。工場研修で配置された技術部には村上さんという気さくな先輩が居た。

「先輩くるま欲しいですね」と話しかけると「バカ野郎オレの月給2万円だぞ」と一笑されたが、少々の成算があり諦めなかった。「先輩プレスのフレームを設計、下請けで造らせてください」が、会社に内緒のアルバイトの始まり。きっかけは「鉄の塊を1ドル360円で輸入するほど馬鹿らしいものはない」とこぼしている、米国からプレス機械を輸入する友人が居たのだ。

で、心臓部の輸入油圧シリンダーに、国産門型フレームがドッキングに成功したら、下請けから幾ばくかの礼金が来た。調子に乗り他の仕事も見つけ、半年ほどで10万円程が貯まった。

「幾ら何でも10万円ではネ」とお馴染み赤坂のブローカー猪俣さんも首をかしげたが、一週間ほどで「8万3000円!!」と得意げに持ってきたのが、42年型シボレーのツードアセダンだった。「スペアタイヤが二本も」という自慢に喜ぶ必要はなかった。禿げたペイント、錆びたバンパー、煙草のヤニで汚れ放題の純毛の内張、スリ減ったタイヤ、そんなボロ車で世界に名だたる悪路を走れば、一日に二度パンクすることも珍しくなかったのだ。

が、そんなボロにも誇らしい部分があった。運転席前方フェンダーに突っ立つアンテナである。当時は、上等仕様でなければラジオや時計は付いていなかったからだ。

その頃、読売ジャイアンツのエースピッチャー、白系ロシア人のスタルヒンが同じ車だったのも自慢の種だった。が、残念ながら、暫くして彼は玉川電車と正面衝突して死んでしまった。

巨人のエース、スタルヒンが私の愛車と同型のオーナーは嬉しく自慢だった。そのスタルヒンが玉電と衝突事故で死亡。悲しかった

製造された42年は太平洋戦争開戦二年目で乗用車生産中止の年だから、生産が僅で、日本では珍しいシボレーだった。登録番号3-13355。当時は全国通し番号だから、全国8万台中の13355番目に登録した大型乗用車ということになる。

ハンドルの遊びが多いのでタイロッドエンドを交換と、軽く手をかけたら抜けてしまうほどの危険なボロ車。でも直六100馬力は排気管からオイル上がりの煙を吐きながらもよく走ってくれた。

ボロでも車はクルマ、乗りたがる女の子がいくらでも。キーケースを胸ポケットに入れ鍵は外でブラブラ。ぞっとするキザさだが「オレは車持ってる」で、向こうから「乗せて」と声が掛かるのだ。

写真トップは56年頃の千葉街道。営業部仲間と野島崎灯台に向かう途中。当時の国道は舗装が破れ凸凹だからダンパー不良の車で走ればひどい上下動の繰り返し。そんな最中に突然のエンスト。

エンコ原因は単純明快。激しい上下動でボルトが折れてバッテリーが脱落→ディストリビューターを直撃→キャップが外れ回転中のローターが割れてしまったのだ。田舎では外車のパーツなどないからエンコはお手上げ。JAFなど未だない。途方に暮れる。

が、シボレーのエンジンは復活した。途方に暮れながらフトひらめいた。戦前日産がコピーしてトラックに使っているのを思いだしたのだ。シボレーでは駄目でも、日産トラックのローターとキャップなら、いくらでも田舎の部品屋で調達できたのである。

愛車の写真と死亡記事では42年型シボレーがどんなものか把握しにくい。で、こいつはクーペだが新車の姿を紹介しよう