【車屋四六】女のけちんぼラリー 昭和34年

コラム・特集 車屋四六

昔の人は「女はケチがいい」と良く云った。近頃ケチというと、悪口さげすみ言葉と受け取られるが、昔は、浪費に対する倹約という意味にも使われた。

この場合、ケチは褒め言葉であり「所帯持ちのいい女」と受け取れば良く、ケチは女の勲章だった。少年時代「嫁にするなら京女だよ」云われたものだが、日本最高が京女だったのだろう。

そんなケチを冠したラリーが開催された。昭和34年=1959年で、スタートは東京青山、明治神宮絵画館前だった。

主催者の顔ぶれは、いすゞ自動車、やまと自動車、ヒルマン販売店、日刊自動車新聞社、そして女性自身。既に女性週刊誌があったことが判るが、それでヒルマンによる女性のラリーだったことと想像が付くことだろう。記憶が確かなら、このラリーの競技長は、後に日刊自動車新聞の社長になる梅村さんだったと記憶する。

当時ヒルマンは、イギリスのルーツグループと契約したいすゞ自動車がライセンス生産していて、ヤマト自動車が、いすゞ系の有力販売店だったが、ヤマトはそれ以前からのヒルマンの販売店だった。

余談になるが、第一回日本グランプリで消極的だったいすゞ自動車のケツを叩いて車をチューニング、出場に漕ぎ着けたのが、ヤマト自動車だった。

当時のいすゞは、トラック屋丸出し。で、時のスポーツカーブームに乗り、ベレットGTを開発したまでは良かったが、その発売直前の会議で一人の重役が「GTとはどんな意味か」と聞いたほどのレベルだったようだ。

誰が云ったのか「GTの意味はジャンタケから」と答えに、くだんの重役が怒ったと聞く。当時、いすゞのスポーツ活動の中心はヤマト自動車の竹田部長。彼は大の麻雀愛好家。それで親しい仲間達はジャン竹と呼んでいたことに引っかけたのだが、そんなギャグも通じないのが、いすゞの経営者達だったようだ。

ラリーは東京→大阪までを二日間で走り、消費燃料が少ない車が勝ちというルール。いわゆるエコラン=エコノミーランニングというやつで、女がヒルマンに乗って、というのが出場資格である。

イギリスでのモデルチェンジに合わせて日本でもモデルチェンジした。ラリーは、初代と二代目の闘いだった

何故、女とヒルマンという構図が生まれたのか説明しよう。その頃の日本は、戦後10余年を経て、敗戦の痛手から立ち直り、一部の裕福な家庭では「そろそろ自家用車でも」という時代になっていた。相変わらず日本市場は大型アメリカ車全盛ではあったが、ヨーロッパの小型車の人気も出始めていた、いすゞヒルマン、日産オースチン、日野ルノーなどの影響もあったろう。そんな市場で良きライバルがオースチンとヒルマンだが、どちらかというとオースチンは男に好まれ、ヒルマンの華奢の姿を女ドライバーが好むという傾向が強かった。

昭和32年頃、54年型オースチンA40サマーセット(英国製)に乗っていた。ある日麻布一の橋交差点で信号待ちしている隣に私のより新しいオースチンA50ケンブリッジが停まった。ふと見ると学校が同期の小林陽太郎だった(後にゼロックス社長→会長)というように、男はオースチンが好きだった。

が、華奢な姿、私が好かない細身のステアリングハンドルも手が小さな女には好まれたようで、とにかく女のオーナードライバーはヒルマンが多かった。で、いすゞが企画したのが、ヒルマンの女だけの大会。乱暴運転が必要不可欠の、本格的ラリーではなく、エコノミーランだったのである。

この女エコランは、昭和40年まで続いて中止されたが、その頃にはベレットの時代になっており、スポーティーが売り物のベレットは男っぽさを表面に出した車だったから、女大会を存続するのは無理だったのだろう。

女エコラン、第一回の優勝者は木村郁子さん。たしか聖心学院生だったと思うが。彼女は日刊自動車新聞、木村正文社長のお嬢さんで、このラリー以外で、三回ほど会ったことがある。

木村社長の住まいは辻堂で、松籟荘と名付けられた立派な屋敷。三階の風呂場から海岸の松林越しに海が眺められるという、贅沢な住まいである。友人と其処を訪ねた時に「娘です」と紹介されのたが一回目。三回目は、石坂経団連会長の御曹司の白金に在るお宅を訪ねた時で、既に彼女は結婚して石坂夫人になっていた。二回目は、彼女が婚約中だった。昔”吉田茂のワンマン道路”と呼んだ戸塚バイパスの途中に、小さなクレー射撃場があった。ある日、愛用のフランキ(伊)12ゲージでクレーを撃っていると「駐車場にジャガーが駐まっていたから」と二人連れでやってきた時が二回目。

その頃彼の愛用はVWビートルだが、SCCJ(日本スポーツカークラブ)のメンバーらしく、ジャドソン製スーパーチャージャーを付けたパワーアップ車。その日、東京でデートの後、彼女を辻堂へ送っていく途中だったようだ。

ラリーを走ったヒルマンは、ノックダウンから始まった初代と、モデルチェンジした二代目が入り交じっていた。

その初代は、イギリスが戦後経済復興策で、輸出奨励の自動車産業の片棒を担いだルーツグループが、対米を意識してレイモンド・ローウィーにデザインを依頼、その垢抜けた姿が好評で成功した車だが、それも日本の裕福女性に受けた理由かもしれない。

初代は1260㏄37.5馬力で、40馬力のオースチンA40より、少し瞬発力で劣っていた。が、乗り味はマイルドだった。

イギリスからの輸入元は赤坂の伊藤忠自動車で、値段は昭和30年頃で103万円程だった。その頃の、銭湯の入湯料は16円だったから、庶民には全く縁がない買い物だった。

ヒルマンのライバルはオースチンA40サマーセット:居住性が良くヒルマンより馬力が強く加速感も上回った。写真はノックダウン一号車と浅原社長と関係者で記念写真

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