この記事を書いた平成2年頃、NTV麹町ビル近くのビルの地下に、ドイツ音楽と酒と食事の”パウケ”という名の店があった。平成21年、ネットで調べたら、まだ在るようだ。当時の店の主人、ベルン・シュタインは昭和31年頃からの付き合い。彼には、娘と息子が居て、現在パウケがあるとすれば、息子が経営しているのだろう。
親しくなってからはルディーと呼ぶようになった。ルディーが商売の始まりは、銀座泰明小学校隣の小さなビル2階と3階を使ったゲルマニアで、開店は確か昭和30年頃のはず。私が通い始めた昭和31年頃は、客のほとんどが駐留軍兵士で日本人は僅かだったが、数年でその比率は逆転した。生演奏のドイツ音楽、ビールそしてドイツ料理。今ではドイツ風ビアレストランは日本中にあるが、その発祥がゲルマニアである。
昭和33年頃、(野中重雄の英車遍歴で登場した)野中先輩と銀座をハシゴしながらゲルマニアに着いたら「?ミスター野中・何故青木と友達なのだ」というわけで、偶然、彼らは知り合いだった。
先輩が初めてヨーロッパに映画の買い付けに行った時に、案内してくれたのだと云う。昭和20年代、映配宣伝部長の先輩は、ドイツ北端のルーベックで旅行者免税のカブト虫を1000ドルで買って、二人でドイツ~フランスと、映画会社を訪ねながらカンヌまで旅を共にした仲だったのだ。
当時のカブト虫は1131㏄25馬力しかなかったが、オートバーンを100km/hで走り続けた話を聞くうちに、一度乗ってみたいと思うようになっていた。
カブト虫をじっくりと乗ったのは確か昭和35年頃。戦後初参加のヘルシンキ・オリンピックに馬術で出場の川口さんが、帰国時に持ち帰った車の修理を頼まれ、幡ヶ谷の川口邸から茅場町までの回送は楽しいものだった。
カブト虫は日本での愛称、アメリカではビートル。カブト虫はポルシェ博士が国策で開発、ヒトラーがKDF(歓びの中から力を)と命名し、働けば車が買えると労働意欲をあおったが、敗戦で量産されずにヒトラーの公約は反古、積立金も消えた。
ちなみにWWII前の1938年型が、トヨタ博物館にある。
ヤナセから新型フォルクスワーゲンの展示会招待状が届いた。カミサンの従兄弟の富澤孝がいて「売れないんです」。慶応アメリカンフットボール部の花形プレーヤーだった頃の面影は何処へやら、悲しそうにしょぼくれていた。
彼は、その年にヤナセに入ったばかりの新人セールスマン。泣き面につられて、つい一台買う約束をした。で、愛車のトライアンフ・スピットファイアを下取りに出したら、30万円にしかならず、がっかりした。
直後にヤナセの下取り価格の安さは定評があると知ったが、念願のカブト虫のオーナーになれたのだからと気持ちを取り直した。カブト虫は、1965年型から1285㏄40馬力と強力になり、加速力が向上していた。
頭上のハンドルをせわしく回すと開くサンルーフ型カブト虫は、金116万円也。諸手続が終わり芝浦に引き取りついでに、当時の森山VW事業部長を訪ねたら「貴方もやられましたか」。私は世に云う”泣きバイ”に引っかかったというのだ。
が、展示会での売り上げが新人中ナンバーワンだったと聞いて、とても嬉しかった。その後の富澤孝は、努力、出世を続け、府中営業所長、最重要拠点の一つ世田谷営業所長、梁瀬社長秘書、ベンツ営業部長などを歴任して定年退職。ヤナセが元気な頃で良かった。
カブト虫がマイカーになった頃、富士スピードウェイが建設中で、私はJAF資格審査委員の資格で、何度も監査に出かけた。そんなある日、舗装が終わったばかりのFISCO名物になるバンクに、フルスロットルで飛び込んだ。というよりは飛び降りたという感じ。
私のカブト虫の最高速度は115キロなのに、ふと速度計の針を見ると150キロを指していた。時計回りのバンクが終わると、そのまま右へとカーブは続く。ドラムブレーキは頼りにならず、ふらつくカブト虫を必死に操った。幸いなことに、右カーブがやや上り坂なので、速度が徐々に落ちて、胸をなで下ろした。