【車屋四六】桜田通りに外車ディーラーが三軒あった

コラム・特集 車屋四六

日本橋を起点に、銀座、新橋、品川、最後は大阪に到着する国道一号線と、札の辻でぶつかるのが桜田通りだが、三田の慶応義塾前から赤羽橋、飯倉、虎ノ門、最後が桜田門だから桜田通りと呼ぶ。桜田門は、井伊大老が水戸浪士に天誅を加えられ暗殺されて有名だが、門の正面にはドライバーには天敵の警視庁がある。

東京タワーが無かった昭和20年代、飯倉の坂を下り神谷町を過ぎると、虎ノ門交差点までの間に三軒の外車ディーラーがあった。

最初は寺山自動車だが、シトロエンを扱う時には日仏自動車という名前になる二枚看板の店だった。正確な所在地は桜川町七番地だから、神谷町に近く大通りから右に入った所である。

二番目の店も通りの右側だが、桜川町二一番地だから、もう隣は琴平町という虎ノ門に近い所。ディーラー名は、日本アメリカン自動車である。

その店から通りを隔てて右前方には有名な金比羅大神宮の大鳥居があり、その左に新朝日自動車。二階まで吹き抜けの明るいガラス張りショールームには、いつもピカピカのGMポンティアックが、2台ほど並んでいた。

寺山自動車は元が修理工場だったようで、大きいが薄暗い古い店で、明るい新朝日自動車とは対称的。一方、日本アメリカン自動車の特徴は間口が狭いこと。多分、狭さという点では日本一だったのではなかろうか。

四枚ほどの木造サッシのガラス戸を開けたショールームは、小型車一台で一杯になってしまうほど狭かった。隣が”魚勇”という魚屋で、この記事を書いた平成二年頃も健在で、今でも仕出し屋なのか小料理屋なのかは知らないが、魚勇の看板があるので、前を通るたびに昔を懐かしく思いだす。

日本アメリカン自動車は、アメリカ製クロスレイとドイツ製ボルグワルド・ハンザの日本総代理店。クロスレイは、イギリスにも同名の会社があるが、こいつは英語の綴りにSが二つ、アメリカの方は”CROSLEY”で、時代も違う。

クロスレイは、WWII直前の1939年に創業して、戦中のブランクのあと生産再開したが、1952年には消滅という短命な会社だったが、フルサイズが常識のアメリカで、終生、ミニカー作りに精をだすという変わり種だった。

WWII前は空冷580㏄二気筒で、戦後になると722㏄に。我々が乗るようになる1950年代には、水冷750㏄26.5馬力だった。

このエンジンの26.5馬力を5400回転は、当時のアメリカ製では驚異的高回転と感心したものだった。そしてボーイングB29爆撃機の発動機始動用と物知り顔に話す人も居たが、私は発電用エンジンだったと思う。この頃の大型爆撃機は、無線機ばかりでなくレーダー、リモコン機銃など電力消費が増えて、いくら四発でも直流ジェネレーターでは不足、独立した発電機が必要だったはずだ。

何人かの知人が、クロスレイを持っていた。三ノ輪の大手瓶問屋の長男、川辺先輩はステーションワゴンだった。

戦前型ダットサンで戦後の再開をした日産は、古風な姿をフェイスリフトしたが、セダンもバンもクロスレイそっくりだった。デザイン権でクレームが付かなかったのが不思議だが、戦勝大国アメリカが敗戦国日本を哀れんだのか、蔑んだのか、いずれにしても無事だった。

昭和30年前後の頃、銀座ヤマハ楽器店の近くに、若者でにぎわうチョコレートショップ、通称チョコショーという大きな喫茶店があった。そこで火事を出したことがある。

ちょうど銀座松屋の横に駐車したら、銀座通りを消防車が走り、人が新橋方面に駆けていく。で、我々も「おらぁ江戸っ子」とばかりに野次馬を追いかけると、たどり着いた所がチョコショー。が、ボヤ火災で直ぐに一段落「なんだつまらねぇ」と不謹慎なことを云いながら松屋横に戻ると、前後を大型車に挟まれ動きが取れない状態のクロスレイを見つけた。

が、慌てなかった。元気な頃の学生二人、後部を持ち上げて横に引っ張り出せば発車オーライ、それほどクロスレイは軽かった。

高校、大学と一緒だった縄田は1951年型二座席スポーツカーのクロスレイ・ホットショットの持ち主だった。写真は、日吉校舎の横で、ナンバーの3マンダイは日本人が買えない外車を、第三国人名義で登録したやつだ。スペアカバーをルーペで見ると、古いSCCJの紋章が懐かしい。

日本アメリカン自動車が売るボルグワルドには2400と1800の2シリーズがあり、売れ筋は1800。いずれも当時としてはフェンダーがないフラッシュサイドが斬新だった。

ボルグワルド・ハンザ1800:日本アメリカン自動車で売っていたドイツ製乗用車