【車屋四六】SAは時期尚早→トヨタはタクシー御用達メーカーに

コラム・特集 車屋四六

太平洋戦争に日本が負けて、米軍主体の連合国軍が占領にやって来た。そして米兵が町に出てくるようになると、最初に子供達が憶えたのは「ハロー」と「ジープ」そして「ギブミーチョコレート」。今にして思えば屈辱的英会話である。

初めて見た時に珍竹林な姿だと思ったジープも、見慣れてみると軽快な乗用車で、爆撃で焼け野原になった東京の焼けトタンや廃材で造ったバラックが並ぶ街を走り回っていた。

昭和21年も後半になると、進駐軍兵士や軍属、その家族が持ち込んできたピカピカの乗用車が走り始める。圧倒的に多いのはアメリカ車、次がイギリス車、ぐんと減ってオーストラリア車、さらに少ないソ連車だった。

日本人が乗る車は、戦前に輸入されて激しい戦火を生き抜いた外国車だが、一流企業社用車と金持ちがガソリンで走り、タクシーやハイヤーはボロボロ外車でガソリンの配給がないので、背中に薪を燃やす釜を背負っていた。

やがて、連合国軍最高司令部=GHQが禁止していた乗用車の生産が許可されても、日産やオオタと異なり、トヨタは戦前に小型車の経験がなく、急遽、小型車の開発を迫られた。

戦後の小型車生産一番乗りは、戦前型ダットサンで再開の日産。二番手が、立川飛行機の流れを汲む新参たま電気自動車。そしてどん尻が、トヨタのトヨペットSAだった。

トヨペットSAセダン:1945年8月終戦GHQ乗用車生産禁止令。47年6月解禁→10月SA発売。この素早さは豊田喜一郎の先見の明で小型車開発が終戦の年既にスタートしていた。で、戦後完全開発の小型車では日本初の作品となる

逆に戦前の遺産がないだけに、昭和22年発売のSAは機構が斬新だった。ダットサンのリーフスプリングに対し、SAは欧米車と同じコイルスプリング、モダンなコラムシフトに誰もが感心した。

先輩二車がどう見てもトラックの延長でしかないスタイリングなのに対し、SAは流線形、造形美という点では月とスッポンだったが、その斬新さが裏目に出た。

当時の日本の道路状況は世界でも最低レベル、そこを走るのに先進国と同じメカニズムの採用は、耐久性という面で落第生だった。もちろん100万円近い値段も、戦後の耐乏生活の中では、売り上げの足を引っ張るのに充分だった。

結局成功したのは、後発のノンシンクロでフロアシフト、リーフリジッドアクスル、27馬力の出力で最高速度77km/hのトヨペットSD型。要するに先輩達と同じ流れのトラック流だから、頑丈という点で合格して生き延びることができた。

SDは足掛け4年の間に665台を売って、ノウハウをしっかりと蓄積した。それを踏み台にして開発され、昭和28年に登場したトヨペット・スーパーが、タクシー業界で革命を起こすのである。

戦争が終わって登場した代燃車タクシーは、戦前の中古だからドンドン廃車になり、困ったあげく、米軍払い下げのシボレーやフォード、そして少量輸入される欧州系小型車に跳び付いた。

が、舗装路を快適に走るよう設計された欧州車が、天下の悪路を走れば結果は明瞭で故障続出、はたと困ったのである。

とにかく、物不足の時代だから車なら何でも良くて、2ドアのVWビートルはまだしも、シトロエン2CV、軽量スポーティー車のフランス製ディナパナールまで買い込んだのである。

たちまち馬脚を現したのは勿論だが、ちゃんとした4ドアセダンのフォードコンサルやプジョーなども、サスペンションに亀裂が入り、ボディーはガタガタで、使い物にならないことが判った。

そんなことで途方に暮れていたタクシー業界に登場したのが、トヨペットスーパー。基本的に、トラックの延長線上で開発のメカだから、悪路には滅法強く故障も少ない。で、稼ぎのいいタクシー車として人気が上昇していった。

もっともシャシーはトラックだが、ようやく欧米のスタイリングも取り入れて、当時としては格好もまあまあ。そしてボディーサイズがタクシー需要を当て込んで欧州小型車より一回り大きく、定員五名、前席がベンチシートだから六人乗ることも可能だった。

斬新なOHVで48馬力を自慢。未だノンシンクロだったが、前進四段変速も欧州車並だった。が、中身は四輪リーフリジッドアクスル、頑丈なこと天下一品。大柄サイズと相まって、外車をタクシー業界から駆逐してしまった。で、中型はトヨペットスーパー、小型タクシーはダットサンという構図が出来上がったのである。

トヨペットスーパーにはRHKとRHNの二種類があり、姿がまるで違う。原因は、下請けボディーメーカーが二社あり、関東自動車製がRHK(写真トップ:SF型小型乗用車の次に開発1953~54販売。RHKのK=関東自動車工業製。R型エンジン搭載車3600台+S型搭載車130台。R型エンジンは初代クラウンにも搭載。昭和28年頃撮影:銀座四丁目交差点、後方はオペルレコルト、VWビートル。遠方に松坂屋デパート)、中日本重工製がRHNだった。中日本重工は、GHQの財閥解体命令で分割された旧三菱重工の一つだった。

トヨペットスーパーRHN:N=中日本重工業製。R型2015台+S型100台。R型エンジンは旧SF型搭載のS型の排気量を50%/出力を20馬力アップ。直四OHV、1453㏄48hp

日刊建設工業新聞に勤める福田光衛という友人が、RHKのオーナーだった。で、良くその車でゴルフに出かけたが、負けた帰りは運転手にさせられた。

遊びが多いハンドル、効かないブレーキ、思いクラッチ、ケツを突き上げる乗り心地、今にして思えばどう転んでもトラックなのだが、当時は、それでも持っていることが幸せだったのだ。

最近のドライバーには無縁な技術になってしまったが、当時国産車の変速機にはシンクロメッシュがない。だから、ダウンばかりか、シフトアップでも、毎回ダブルクラッチを踏む必要があった。

シフトアップ時には、クラッチを踏んでギアを抜き、同時にクラッチを繋ぎ、もう一度クラッチを踏んでギアを入れる。ダウンの時は、中間でクラッチを繋いで一瞬アクセル踏み、エンジン回転を上げてから、クラッチを繋ぎギアを落とす。必要とはいえ、面倒なことを良くやっていたものである。

そんな苦労した時代を踏み台にして、一度は失敗作となったトヨペットSAが甦る。昭和30年に登場したのが、トヨペット・クラウンだった。