【車屋四六】ソビエト連邦の車達

コラム・特集 車屋四六

その昔、自由主義国に対して鉄のカーテンと呼んで鎖国状態だったソビエト連邦、通称ソ連に大手を振って出入りしていたのが、既にご存じの高田嘉七である。

北方領土は日本の領土と云う、いわばソ連には好ましからざる人物なのだから不思議だが、そこにはちゃんとした理屈がある。「俺はソ連でVIPなんだ」とうそぶく理由を少し説明しておこう。

文化四年(1807)ロシア水兵択捉島に上陸乱暴→幕府ロシア艦長ゴロブニン少将逮捕(ゴローニン事件)。ロシア報復で高田屋嘉平拉致→カムチャッカへ。現地でロシア語を覚えて役人と交渉、納得させて帰国→幕府を説得してゴロブニン艦長を釈放させ約束を果たした。

それから180年、ゴロブニンの孫と、嘉平の孫嘉七が再開。レニングラードに日ソ友好記念館を設立。で、彼は度々ソ連訪問をする(これをカー&レジャー紙に書いたのは1987年頃だから未だソ連時代。レニングラードは現サンクトペテルブルグ)。

鉄のカーテン時代、ソ連入国は難しかったが、そんな国で私のために車の写真をいっぱい撮ってきてくれた。鎖国状態の当時、ソ連の写真は貴重な資料だった。

潜水艦まで写してきたのには呆れたが、心配顔の私を見て「俺はVIP」と笑っていた。21世紀には珍しくもないが、当時は貴重な世界レベルでは時代遅れのソ連自動車を紹介しよう。

まず想い出すままに、WWII以後のソ連製自動車の名称を並べてみよう。戦後、ソ連兵が日本占領で来た頃、よく見かけたのがポペダ。それ以外、写真や本で見たものでは、ザポロジェッツ、モスクビッチ、フィアットと共同開発のジグリ(輸出名ラダニーバ4WD)、ボルガ、チャイカ、ジル、ジス、ジム、ツンドラ、スプートニク等々。

モスクビッチ初代:ドイツのオペルがWWⅡ前に開発した人気大衆車。工場丸ごとモスクワ近郊に移転そのまま製造したからオリジナルと全く同じ姿である。1940年終戦→撮影が87年、よくぞ大切に使ったものである

何かの本で読んだが、チャイカ、ジル、ジス、ジムはソ連VIP専用で、ZILのLはレーニン、同様にジスのS=スターリン、ジムのM=モロトフだと聞いたことがあるが、スターリンが亡くなり、ソ連終末期には名称変更しているようだ。

さて、高田嘉七が撮っ写真で、VIP用ロングボディーのセダンは、チャイカ/GAZで、全長6110㎜。車重2600㎏。V型8気筒、5500㏄で200馬力前後と聞いている。が、デザインから始まり、シャシー、エンジンなどのメカニズムも、敵視するアメリカ製リムジンのコピーでしかないようだ。

初めは、明らかにパッカードのコピーで、エンジンもATも、本物からの流用だとソ連大使館の館員が云っていた。

ちなみに、私の家からソ連大使館は5分ほどの距離で、大使館前の郵政省は、進駐してきたソ連兵の宿舎だった。ソ連は、日本の敗戦が確実になると、日ソ不可侵条約を破棄して満州になだれ込み参戦した。目的の樺太と千島列島領有に成功すると、すぐに引き上げたので、進駐軍の中では、短期間の駐留だった。

もっとも、ソ連はドイツを東西分割統治したように、日本も盛岡辺りで南北分割統治を主張したが、すでにアメリカや中国、西欧が共産主義国ソ連を警戒、実現させなかったので、経費がかかる長居を避けたのかもしれない。

だいぶ話がそれたが、上記VIP用のロングボディーには、アメリカ流のインペリアルセダンと、公式用リムジンがあり、セダンの方は、VIPの自家用だったようだ。

モスクビッチと並んで、戦後のそれを代表するのが写真のボルガ。全長4830㎜x全幅1800㎜x全高1600㎜。ホイールベース2700㎜。車重1360㎏。直四OHV、2455㏄、圧縮比8、85馬力/4200回転、18kg-m/2200rpm。3MT、最高135km/h。前輪コイルスプリング独立懸架、後輪半楕円リーフスプリング。1962年から生産されて、ヨーロッパに輸出されたこともある。また、ベルギーでは組み立てを試みたともいうが、詳細不明。

さて、モスクビッチは、有名なエピソードの持ち主だ。というのも、元はドイツ生まれのドイツ育ちなのである。

WWIIの敗戦で、オペルの画期的大衆車カデットの工場が、ソ連の占領地区に入ったのが不運だった。ソ連は、戦時賠償を理由に、図面,金型ばかりか、工作機械を含み工場丸ごと貨車に積んで運び、モスクワ近郊に移転して操業開始した。

その乗用車に、モスクビッチ=モスクワっ子の名を付けて発売したのだ。当時外貨が欲しいソ連は、それを欧州に輸出した時に、アフターサービスの充実を強調した「故障したらオペルの工場に行けば簡単に直る」と。

レニングラード(現サンクトペテルブルグ)の住宅街に駐車のボルガ。後方黄色はモスクビッチだそうだ。87年5月31日撮影とある

だから写真の姿は、1937年生誕のカデット寸分変わらない。87年レニングラードで撮影と在るが、既にカデットもフルモデルチェンジの後だから、当時としてもかなりな使い古しである。

写真のモスクビッチのラジェーターグリルは、ドイツで38年にフェイスリフトした新しい顔のままである。写真は4ドアだが、オリジナルには、2ドアやカブリオレもあった。

いずれにしても、ソ連は戦勝国ではあるが、戦後の日本と同じように、古い物を大切に修理しながら使う習慣が、日本より長く続いていたのだろう。

届けてくれた写真はまだまだ有るが、三枚しか掲載できないのが残念だから、続きはまた紹介しようと思う。

彼が訪ソの時代、ソ連製乗用車は比較的車重が重かった。原因は厚い鉄板のようだ。薄型鋼板が不足なのかと思ったら、道路に撒く融雪剤が塩で、その腐食対策として厚い鉄板を使うのだと判った。

ソ連もロシアになり、少し開放が進んで外国資本の工場で乗用車生産も始まっているから、もうこのような対策はしていないだろうと思う。

またガソリンの質も向上しているだろう。高田嘉七が訪ソした頃、販売されていたガソリンは、72~76オクタンがレギュラーで、ハイオクタンは93~98だったそうだ。

今では、簡単に観光旅行ができるようになったロシアだが、残念ながら未だ行く機会に恵まれない。本業の自動車ばかりでなく、博物館などにも興味があるので、残念である。