【車屋四六】つわものどもが夢のあと

コラム・特集 車屋四六

事故でも起こせば物笑いの種と21世紀に入り廃業したが、20世紀後半の50年間ほど、私は航空写真撮影で飛行機を操縦していた。

初めて買った中古の1953年型パイパー・ペイサーは、鋼管羽布張り135馬力四人乗りのオンボロ機で、雨が降るとドアの隙間から水が漏るという飛行機だった。冬は寒かった。

やがて、ボロでも仲間が集まり、割り勘で新品の1966年型ムーニーを買ったが、こいつは可変ピッチプロペラ、引っ込み脚、値段が安い割には、スピードが出る機体だった。(写真トップ:二番目のマイプレーン米国製ムーニー(JA3290)。低翼引っ込み脚・可変ピッチプロペラで250馬力クラスと同等の高性能機。66年から82年まで愛用。調布空港で撮った写真のボロボロは御容赦を。)

が、低翼機なので写真が撮りにくく、引っ込み脚のセスナ172RGカトラス、次にセスナ210ターボ(310馬力)、そしてセスナ182で20世紀の終わりまで飛んで、私の飛行人生に終止符を打った。

そんな写真撮影が千葉方面の時には、基地の調布飛行場への帰路、晴れた日には東京タワーの向こうに新宿の高層ビル群、丹沢の山から富士山までもが見えてくる。

“強者どもが夢のあと”は、奥州を旅する松尾芭蕉が詠んだ、義経追討をネタに源頼朝が藤原一族を滅ぼした平泉古戦場跡での名句である。

1980年頃、ディズニーランドが見えてくる頃になると、習慣的に下を見る。眼下の“船橋ららぽーと”にはたくさんの想い出がある。それこそ「つわものどもが夢の跡」なのである。

日本初の本格的レース場の鈴鹿サーキットで、昭和38年にオートバイレース、そして39年に日本グランプリレースが開催されて、我々は自動車レースの面白さの虜になり、日本中にモータースポーツ熱が一気に盛り上がった。

更にマイカー時代の幕が開いたこともあり、日本中に自動車クラブや同好会が生まれ、ジムカーナや、お遊び的ラリーなども開催されるようになる。当然、本格的レースやラリーをやりたい、そしてそれを見たいという願望が生まれるのは自然の成り行きだった。

ところが本格的サーキットは関西にしかない、関東にも欲しい、ということで生まれたのが船橋サーキット。日本では二番目のサーキットだった。

ちなみに三番目が富士スピードウェイ。オープンは1966年/昭和41年1月。鈴鹿サーキットで開催不能になった日本グランプリレースの第三回目が、五月の連休に開催されている。

その前年七月にオープンしたのが、船橋サーキット。が、1967年7月にはクローズしたから、わずか二年ほどという短命なサーキットでもあった。当時はバブルに向かって走り始めたばかりの首都圏にあったことが、不運の原因だったのかもしれない。

サーキットはクローズされてから、グランドスタンドと最終コーナーからの第一コーナーまでの直線部分を生かしたオーバルコースに変更されて、しばらくの間オートレースが開催されていたが、私は行ったことはない。

クローズされてから、10数年を経た1980年代になっても、空からは懐かしいコースの直線や56R、370Rコーナーなど、切れ切れに残っており、空から想い出に浸ることが出来るのだ。

健在だった頃の船橋サーキットは、全長3100メートルのトリッキーなコースで、1万5000人の観客を前に、20台のレーシングカーが戦いを繰り広げていた。が、コースの幅が12~13メートルと狭く、安全地帯の幅さえ4~10メートルほどしかないから、走ってみると、とても怖いコースでもあった。

世界でも小さいことでは有数なサーキットの設計は、イタリーのピエロ・タルフィー。WWII前から戦後までという長期間欧州のレースで活躍した名ドライバーで、グランプリのチャンピオンでもあったという経歴の持ち主だ。美しい白髪から、シルバーフォックスの異名で呼ばれていた。

船橋サーキットの計画が持ち上がった頃、私はJAFスポーツ委員会の資格審査委員会に所属していたので、工事中のサーキットをしばしば訪れ、立ち会い監査、進行チェックなどをした。

また完成して、レースが開催されるようになると、今度は計時一級公認審判員の資格で、ビッグレースのほとんどを管制塔の上から、見物できるという幸せ者でもあった。

もっとも、休日になれば日本各地のサーキットやジムカーナ、ラリーに審査委員として、また計時委員として、時には泊まり込みで出かけてしまうのだから、家内には悪い夫であり、子供には悪い父親だったと今頃になって反省しているが、後の祭りというやつだ。

船橋サーキット:右がグランドスタンドとスタートライン。上が滑走路と並行したスピードが出る直線。小さかったが、コースのほとんどが見渡せて楽しいコースだった

船橋は、大きなレースから小さなジムカーナまで、毎週開催してファンを楽しませてくれたが、中で、一番の語り草は浮谷東次郎(トヨタS800)と生沢徹(ホンダS600)の一騎打ち。

それは、修理でピットインのあとコースに戻り、順位がトップから最後尾に落ちた浮谷の、その後の強引な走り、ブッちぎりでトップの生沢に追いつき、最後に逆転優勝するという、映画もどきのレースだった。

もっとも、テクニシャンの生沢が難なく抜かれたのは、ピットの計算違いで、後ろから迫るS800を周回遅れと勘違い、先を譲ったからという、説もあるのだが。

数年前に更地になったが、ららぽーとに隣接するザウスと呼ぶスキー場があり、そこは船橋サーキットの第一カーブを曲がった直線路と塀を隔てて並行する、小さな飛行場の滑走路跡地で、社長夫人がパイロットの風月堂が経営する中央航空の基地だった。

暫く私のムーニー(JA3290)も置いてあったので、レースと共に懐かしさも二倍なのである。数々のレースについては、次回に報告しよう。

船橋サーキットの設計者ピエロ・タルフィ:WWIIを挟んで活躍した名ドライバー。グランプリのチャンピオン。理論派で、著書「テクニックofモーターレーシング」はレーシングドライバーのバイブルだった