第二次世界大戦の間、ルマン24時間レースはお休みだった。そして、戦争後のどさくさが一段落した1949年、戦後の第一回ルマン24時間が開催された。
日本では昭和24年、未だ国中貧乏だったが、湯川秀樹博士の日本人初ノーベル賞受賞で国中が歓び明るくなった。1ドル=360円の為替レートが決まり、少女スター美空ひばり誕生。一方、中国では1月人民解放軍が北京に入り、10月中華人民共和国成立を宣言。蒋介石率いる国府は首都を台北に移した。
そんな時代、戦後の初優勝はフェラーリ2リッター(フェラーリ166M)で、社長のフェラーリが戦争前はアルファロメオのレーシングドライバーだと知って、感心したことを想い出す。
1950年、第二回優賞のタルボは、ルマン24時間レースで初めて平均時速150km/hの壁を破った車である。
平均時速で170km/hの壁を越えたのはジャガーDタイプで、1953年のこと。Dタイプは、鈴鹿サーキットで開催の第一回日本グランプリに登場したから、年配のファンには懐かしかろう。
次の目標、180km/hを越えたのもジャガーDタイプで1957年。そして1963年になると、フェラーリ250Pが190km/hを越える。当然、次なる目標は200km/hの大台。破ったのはアメリカのフォードMK-IV(7リッター)だった。
第39回で紹介したように、現在執筆中のシリーズは、既に廃刊のカービート誌に1984年頃に書いたもののリメイク版だから、一部を除いて時代もその頃だが、当時ルマンの最速記録とされていたのは、ポルシェ917の222.3km/hだった。
その頃までで不思議だったのは、WWII前レース界を席巻したメルセデスが、ルマンだけは優勝回数が少なく、1952年の300SLの一回だけが記録されている。
メルセデスは敗戦の後遺症から立ち直り、ルマンへのチャレンジだったのだが、1955年も多分優勝したことが予測されるが例の大惨事を引き起こして、その後長いことレース活動から遠ざかったことも優勝がない原因である。
80年前後までで、戦前戦後を通じて優勝回数が多いのは、フェラーリの9回、次いでベントレーとジャガーの5回である。それからのことは、皆さんご存じと思われるが、このところのアウディTDIの連勝は、同じ内燃機関ながら、ガソリンからディーゼルへと、予想外な変化だった。
近頃のルマン24時間レースでは、複数のドライバーを登録して、2時間ほどで交代しながらの運転を続ける。が、その昔は、一人で運転する強者もいた。が、一人運転では疲労が溜まり、事故死したので、規則が定められたのである。
長時間運転では、こんなエピソードがある。1932年のこと、この日はベラボーに暑く、3時間ほど走ったところで相棒が倒れた。運転を代わったソマーさんはガッツな男一匹。それからの21時間/2600kmを一人でブッとばして、優勝してしまった。
が、ただ長時間ということなら、もっと凄い奴が居る。何度も登場のパナールの相棒ルバッソール。一人で、48時間48分を昼夜ブッ通しで頑張り、しかも一着ゴールなのだから、とにかく凄い。
当時、道路のインフラは馬車に合わせたものだから、未舗装で狭い。そこを、今なら照明とは呼ばないであろう、灯油ランプで全力疾走するのだから、偉いと云えば偉いが、無茶苦茶と云った方が正しかろう。
同時に、ホイールアライメント理論なんか皆無の時代、例えばキングピンなど垂直で、直進安定など皆無。路面からの衝撃をダイレクトに伝え、猛烈に撥ね振動する棒ハンドルで頑張り通すのは、体力的にも大変なことだったろう。
そんなパナールからみれば、馬車も対向車も人も犬も猫も出てこない、サーキットの舗装路面を走る21時間くらいは、屁でもないことかもしれない。
自動車でなければ、内燃機関は付いていないが、グライダーと呼ぶ飛行機がある。日本語で滑空機、もっともグライダーも日本的呼称で、英語ではセイルプレーンだが。
そんなグライダーで世界滞空記録に挑戦した男がいた。季節風が強くなる冬のアルプスを不眠不休、一人で飛び続けて53時間、もちろん記録達成は目出度し目出度しだったが、後日談がある。
止せばいいのに、彼は自分の世界記録に再び挑戦して、不帰の人となった。報告書による帰れなかった原因は、居眠り操縦だったいうが、目が覚めたらゴールは天国だったのだろう。
80年頃まで、ルマンで一番早い記録は、6kmの直線、俗にミュルサンヌストレートと呼ぶ、一番スピードが出るところで、1971年にポルシェ917・V12/7リッター・600馬力が記録した、386km/hが当時は一番といわれていた。