【車屋四六】速さじゃないよ耐久力だ

コラム・特集 車屋四六

WWII以後のアメリカは、飛行機の速度向上に異常な執着心を示した。挙げ句の果ては、ジェット機からマッハ6を越えるロケット機まで開発したが、ロケット機は不要と判断したのか、途中から目標を宇宙に切り替えたのは、御承知の通り。

もちろん、イギリスもソ連も、軍用機開発に執念を燃やす各国も、ロケット機には興味を示さないようで、人工衛星と大陸間弾道弾の開発に集中している。

いずれにしても、地上で我々が使う動力として、このような推力のお化けみたいなものは使い道が無く、特殊な用途以外に興味を示す者は居ないのである。

最近は、電気も見直されて新技術が続出しているが、この世から化石燃料が採取される限り、ダイムラーが発明した内燃機関が廃れることはないだろう。

そもそも我々が愛するエンジンというものは、ピストンがあって、バルブがあって、回ればブルブルッと身震いし、元気の良い排気音を出さなくてはいけないものなのである。

もっとも、近頃のレーシング用エンジンなんかは、あまり回りすぎて可愛げがなくなった。また出力も、1リッター当たり100馬力で感心していたのはとうの昔で、FISCOを走り回っていたトヨタ7はターボ過給とはいえ5リッターで800馬力も出していたし、最近のF1の出力などは、信じられない高出力である。

耐久レースで、最近のポルシェのルマン出場車はV8/3.4リッターで500馬力以上、このところ勝ち続けるアウディR10はV12/5.5リッター、しかもディーゼルで700馬力といわれている。

現在、ルマン24時間レースは、インディー500、F1のモナコグランプリと並んで、世界の三大レースと呼ばれているが、サーキットを走って誰が一番かというレースではなく、三大レースの中では唯一の耐久レースで、24時間でどれだけ走ったかで優劣を決める仕組みになっている。

既に紹介したと思うが、公道閉鎖で作ったルマンサーキットでのレースの始まりは1906年だが、この時は誰が速いかのために開発される競争自動車の戦いの場で、この頃から、車は徐々に実用車とはかけ離れての開発に進んでいった。

そんな車に批判をする連中が出てくるのは当然で、市販車の耐久テスト目的で誕生したのがルマン24時間レースである。その第一回は1923年で、当時の暗いヘッドランプを考慮して、夜が短い夏至の時期に決まって、今に及んでいる。

だから、出場資格は市販のセダンに限られ、1100㏄以下は二座席、以上は四座席で、整備士の同乗は禁止だった。第一回、一周17,261kmを24時間で128周、2209,47kmを走破しての優勝は、仏シェナール&ウオーカー車、平均速度92km/h。参加車33台。

日本では大正12年。9月に関東大震災だが、2月に完成した丸ビルはビクともしなかった。話は脱線するが、当時人気のバイクは英国のノートンで、市販、レーシング、共に世界一と称された。そのモデル18型は、単気筒OHV・4サイクル490㏄18馬力。前進3速。最高速129km/h。車重152㎏。1924年にTTレースで優勝。

さて、第二回の優勝はベントレーで、走行距離2077.340km。平均速度100km/hの壁を破ったのは第三回で、仏ロレーヌ・ディートリッヒで106km/hだった。

始めて走行3000kmをオーバーしたのはアルファロメオ8Cスーパーチャージャー2.3リッターで3017.654km。1930年代後半、ここらあたりからスーパーチャージャー全盛となる。歴代優勝車で例を挙げると、ラゴンダ2.3リッター、ブガッティ3.3リッター、ドライエ3.6リッター、どれもがスーパーチャージャー付き小排気量エンジンだった。

アルファロメオ8C:F1でも一時期最強を誇ったアルファロメオGPカーだが、ルマンでもベントレー四連勝のあと1931年から34年まで四連勝を果たしている。活躍したのは8C(2.3/2.6/2.9L)だが写真は38年だから2905㏄車だと思われる

WWIIでレースは中断するが、その最後1939年の優勝はブガッティ57Cで3354.760kmを走って、平均時速139km/h。そして戦争が終わって初めての1949年の優勝はフェラーリ166MMで3178.760kmだった。

参考までに走行距離4000km初オーバーは、1953年のジャガー120Cで4088.064km。5000kmオーバーが1967年のフォードMKⅦで5232.900km。これまでの最長記録は1971年のポルシェ917Kで5335.313km、平均時速222km/hである。

いずれにしても、同じ道を24時間もヒッチャキになって回り続けるのだから、よくぞ体が続くものだ。ドライバーの血には二十日鼠かリスのDNAが流れているのではないだろうか。

ルマン耐久レースはそれとして、伝統のサーキットレースの方も、速さはエスカレートするばかり、1930年代になるとダイムラーベンツのレーシングカーが、当たるを幸いバッタバッタと相手をやっつけグランプリ界を荒らし回っていた。

こいつは1933年にヒトラーが政権を取ると、国威高揚の手段の一つとして、自動車レースを選んだからだ。で、競争自動車造りは国家事業となり、高性能車が開発されたのである。

その一つがダイムラーベンツ社(DB)で、それに対抗するために老舗四社合併で誕生したのがアウトウニオンだが、どちらかというとヒトラーお気に入りのダイムラーベンツが表に出がちだった。

で、1934年以降のグランプリレースはドイツ勢の独壇場となる。DB/W124の直列8気筒3.37リッターは345馬力。これが1935年後半に入ると直8DOHCのまま4.31リッター・425馬力に。1937年にW125が登場すると、5.66リッター・646馬力で、最高速度は433.7km/hという史上最速のレーシングカーとなった。

このW125に流線型ボディーを載せてのアウトウニオンとの一騎打ちで、名手ベルント・ロゼマイヤーを破ったルドルフ・カラッチオラの優勝速度は261.77km/hという驚異的速さだった。

そんなレース活動はさておき、ドイツのライバル同士は、速度記録にも執念を燃やした。お互いシーソーゲームの結果、ローゼマイヤーの死で、DBの勝利となるが、W125のレコードカーは、V12・5.77リッター・736ps/5800rpm。カラッチオラの操縦で、アウトバーンで436.9km/hを叩きだした。記録は、公道上世界記録として今日までも輝き続けている。

WWIIで幻となったが、DBでは1938年にポルシェの手で、T80型レコードブレーカーを開発。こいつは、航空機用DBSR・3000馬力を搭載、時速650km/hが目標だった。が、WWII突入で、米国ボンネビルの記録コースに搬入できずに、幻と化したのである。

ベンツW196と戦前のGPカー:写真上はおそらく54年のフランスGP。前列は18番クリング、20番ファンジオ(優勝)、10番マセラティ。下はWWII前のGPスタート風景。前列手前からベンツ二台、アウトウニオン(ミドシップ)。右塔上に四ツ輪アウトウニオンのマーク