【車屋四六】メルセデスは可憐な美少女だった

コラム・特集 車屋四六

05年からのエドワーディアン時代に入ると、自動車は早さが命と、スピード時代に突入した。で、メルセデスという名の早い自動車が登場する切っ掛けにもなる。

話変わって、商才がないマイバッハに対して、ベンツは商売上手。第一号の三輪車が走る三ヶ月も前の開発中に、特許申請をするという、チャッカリ精神の持ち主。が、「気軽に山だって登れる」と発売した最初の車は、まるで売れなかった。(写真トップ:ベンツ最初の市販モデル”パテントワーゲン”は大評判とは裏腹に売れなかった。車を買うなど未だ狂気の沙汰という時代だった)

しかし、1893年に3馬力に出力向上、四輪車となったビクトリア号になって売れ出した。翌94年、世界初の量産モデル、1.5馬力のベロ号が戦列に加わって快進撃を始める。95年135台、98年434台、99年には2000台の大台と、急成長ぶりを見せるのだ。

ベンツ・パテント・ワーゲン(1886)。単気筒984㏄、09ps/400rpm、最高速度16㎞。ドイツ帝国特許37435号取得

自動車が生まれ、少々の時間が過ぎて、当然のように世界初のスポーツカーが誕生する。1896年、フランスのボレーが、水雷艇の異名を取る流線型三輪スポーツカーを開発。そいつは、時速50キロという、当時としては恐るべき俊足の持ち主だった。ということで、本格的な誰が早い?どれが早い?が始まるのである。

「隣の車が小さく見えます」という日本のCMがあったが、当時は「隣の車が遅く見えます」という時代の到来だった。そんな時代のオーストリアに、イエリネックという金持ちがいた。彼は、ダイムラー社に「急行列車より速い車を」を条件に、4台一度に注文を出したというから、金持ちのやることは違うものだ。

ちなみに、当時の急行列車は、時速40キロ程。が、ダイムラーの技術でそれが可能と判ると、もっと早いのを、という条件で、更に6台の追加発注をした。

話替わって、1899年、ロスチャイルド男爵は、日頃の楽しみをやっていた。ニースの丘を登るよその車を、愛車の8馬力パナールで全車追い越すことの快感だった。が、ある日、男爵の鼻っ柱を折る車が登場したのである。
追い越された男爵は、心中穏やかではなかったが、そこは紳士、追い越した車の持ち主に近寄り、穏やかに交渉、車を買いとってしまった。男爵を追い越した紳士はイエリネック、そして車はダイムラー12馬力だった。

ダイムラーを手に入れた男爵は「サアまた俺が一番早い」と、ほくそ笑んだのは浅はかだった。男爵の天下は20日間ほどでしかなかった。結果、男爵の車庫に早い車がまた1台。その車の元の持ち主は、もちろんイエリネック。車はフェニックスダイムラー24馬力、時速70キロを誇る二度目に発注の車だった。

ダイムラー社が世界最速の車を連発出来たのは、もちろんマイバッハの技術。で、味を占めたイエリネックは、もっと早いのが欲しい。それにはメーカーを支配するのみ。ということで「絶対に負けない車を造れば全車引き取る」と契約して、マイバッハが完成した35馬力車を全部引き取り、「メルセデス」と命名した。その日から、イエリネックは自動車販売業者になった。

メルセデスという名前は、彼最愛の娘の名。ドイツ車だからドイツ語読みで“メルツェデス”と書く解説者も居るが、「イエリネックの家系はスペイン系だから、メルセデスが正しい」とは、車の故事には誰もが一目置いた、故五十嵐平達さんの弁。また当時の上流階級で、名前にスペイン名を付けるのが流行っていたとも聞く。(写真右:メルセデス・イエリネック10才頃のポートレイト。父イエリネックはマイバッハ開発の全車を引き取り愛娘の名を付けて世界に販売。が、オーストリー地区のみ下の娘マーヤの名で販売)

マイバッハ自信のメルセデスの性能は大したもので、1901年に初参加した自動車レースで、常勝パナールをチャンピオンの座から引き下ろした。そして翌年には、更に高性能化したメルセデス・シンプレックス40馬力を投入する。

こいつは、最高速が120km/hと、当時の市販車では信じられないスピードで、世界一早い市販車と称されることになる。

メルセデスの進化は更に続いて、マイバッハ会心の作が03年に登場する。9200㏄60馬力で、時速は150キロに上昇。この性能に満足したイエリネックは、その車に、とうとう”イエリネック・メルセデス”とフルネームを付けてしまった。

オットー・ダイムラーが創業のダイムラー社は、ダイムラーの死後の1900年から1903年までマイバッハが経営したが、その後はイエリネックが実権を握る。で、経営音痴のマイバッハは、07年に、寂しくダイムラー社を去っていった。

が、経営という重荷が取れて、単なる技術屋に戻ったマイバッハは、生き返ったように働き始めた。その中心は航空エンジンの開発で、天賦の才を再発揮するのである。

一方、イエリネック支配のダイムラー社は、次々とヒット作品を生みだすのだが、24年になるとベンツ社と提携、協力体制を整え、26年に合併する。ダイムラーベンツの誕生である。以後、乗用車のみ商品名を“メルセデスベンツ”と呼ぶようになる。

さて、イギリスにもダイムラー社がある。1886年に独ダイムラーからの特許で操業開始。1930年にはイギリス最古のメーカー、ランチェスターを買収するが、1960年にジャガー社に買収される。

英国ダイムラーは、エリザベス女王が公用車をロールスロイスにするまでの長い間、イギリス王室御用達だった。余談になるが、この御用達という言葉、“ようたし”“ようたつ”どちらが正しいと議論が続いている。

で、言語学者に聞いたら「どちらでも宜しい」という。が、私は子供の頃から”ごようたし”と云っている。子供の頃オヤジが出かける時「ようたしに出かける」と云うのを聞き慣れていたからかもしれない。ちなみに「ようたつに行く」は、一度も聞いたことはないし、言葉の響きからも、この方が好きなのである。

 

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