【車屋四六】空を飛んだ世界初はモンゴルフィエだった

コラム・特集 車屋四六

猿が立ち上がり、やがて人に進化して思考力を持った時、空飛ぶ鳥を見て「おいらも飛びたい」と思ったに違いない。以来、空というのは人類の願望、潜在意識として育ち、成長したはずだ。

高い塔でも造れば「天まで届くだろう」とやって、天罰を食らった王様も居たが、大部分は訳の判らぬ羽を造って、飛び降りては死ぬという、愚かなことの繰り返しだった。

歴史上初の飛行記録はイカロス。オヤジさんが造ってくれた羽で空を飛び、調子にのって太陽に近づきローの羽が溶けて墜落した。孫悟空の金斗雲やアラビアの空飛ぶ絨毯も有名な飛行機だが、忍者の凧あたりになれば信憑性も出てくる。

ジェット機で稼いでいる全日空なのに、昔のマークは少々非科学的で不真面目とも思うが、あれは15世紀の天才、レオナルド・ダヴィンチ考案のヘリコプター。昔ローマ空港の表にもデッカイのが建っていた。ダヴィンチは、ヘリ、飛行機、グライダー、パラシュートなど空飛ぶ機械を考案したが、彼の論文「鳥の飛翔について」は飛行を科学的にメスを入れた最古の文章である。

時代を考えると、驚くべき着想の持ち主だが、いかんせん15世紀の科学では手も足も出なかった。が、もし15世紀に、実用的動力があったなら、史上初飛行の栄誉はダヴィンチの頭上に輝いていただろう。

古今東西、やたら羽ばたき機が多いのは、ダヴィンチも含めて鳥が手本だったから。もし、ムササビが飛ぶのをダヴィンチが見ていれば、固定翼を考えたかもしれない。とにかくバタバタやるのは、20世紀になっても続いていたのだから、究極の飛行形態と信じる人が多かったのである。

が、人が自由に空を飛べるようになったのは、鳥方式ではなく、気球の方が先だから皮肉なものだ。気球がどんな過程で発明されたのかは謎のようだが、空気を熱すると上昇し、ついでに鳥の羽のような軽い物体を飛ばす事実は、かなり古い時代から知られていた。

さて、記録に残る気球第一号は、ブラジルの僧侶ガスメー。1709年、ポルトガル王や後に法王となるコンティ大僧正の前で熱気球を飛ばした。直径3.6mの紙製で、模型ではあるが航空史上初の快挙である。もっとも凧となれば、中国などにも古い記録があり、さしずめ石川五右衛門なんかギネスブック候補である。

本格的熱気球の世界初は、フランスのモンゴルフィエで1783年のこと。家業が製紙業らしく気球も紙製で、高度300mと1800m、2度の上昇飛行に成功した。噂を聞いたルイ16世は「立派な研究は世界の中心パリでやりなさい」の一言で、ヴェルサイユ宮殿での御前興行となった。

直径13m、モンゴルフィエの熱気球は、ルイ16世とマリーアントアネット王妃の見守る中、高度550メートルに舞い上がり、3.2キロの飛行に成功、兄弟は面目を施して有名人の仲間入り。実は、このバルーンには乗客が乗っていた。と云っても、アヒルと鶏と羊だった。生物を乗せ飛行した世界初であると共に、無人輸送機の世界初でもある。こんなことなら、ガスメー坊主、毛虫の一匹でも乗せておけば、史上初生物運送の栄誉を手中に出来たのに。

熱気球世界初飛行のモンゴルフィエのルイ16世とマリーアントアネット王妃の前の晴れ舞台で御前興行。直径13mの紙製熱気球は見事飛行に成功、面目をほどこした

さて、気球に大進歩をもたらせたのは水素の発明だ。1776年、英人カバンディッシュが空気より軽い水素の取り出しに成功すると、モンゴルフィエにライバルのシャルル教授登場。

が、史上初の有人飛行は、モンゴルフィエの気球で、1783年11月21日に、8.5キロを26分間で飛行した。が、その僅か10日後に、シャルル教授の気球が、パリのチュイルリー公園を離陸、2時間で43キロの飛行に成功して喝采を浴びた。長い歴史の中でマバタキほどの一齣で、記録保持は右から左へと移ってしまうのだ。

モンゴルフィエの史上初の有人飛行の目論みを知ったルイ16世は「空は神の領分・人間が空を犯せば天罰が下る」で、どうせギロチンで首を切るのだからと、気球には死刑囚を乗せるよう命令したという。

が、いつの世にも血気盛んな若者が居るもので、26才のロジェールとダラント侯爵が「アヒルだって大丈夫だった」と乗り込んだ。王様の許しを得たかどうかは知らないが、無事に飛んで着陸。人類初飛行の栄誉を残す。本当に神の怒りに触れるなら、ガガーリンなんか、とっくにカミナリにでも打たれて死んでいるはずである。

でも神の罰は有るのかもしれない。有名になったロジェールは、今度は水素気球でドーバー海峡横断を目論んだ。で、ブーローニュの森で飛行実験中に発火したのが世界初の空中火災、そして世界初の航空機による墜落死亡者となるのである。

気球は18世紀に誕生して、改良発展を続ける一方で、飛行船を派生させた。飛行船は、20世紀になると内燃機関という打って付けの動力を得て、大発展を遂げる。そしてWWIが始まると偵察機となり、ついにはロンドンを空襲、爆撃するのである。

戦争が終わると、ツェッペリン飛行船は開発者ツェッペリンを乗せて世界一周に成功。その途中、日本にもやってきて、着陸地の霞ヶ浦では大騒ぎとなった。やがて大西洋横断定期便にまで発展するのだが、ヒンデンブルグが到着地アメリカで火災を起こして、飛行船の定期便に終止符が打たれた。

 

ツェッペリン伯爵の飛行船:何度もの改良を経て実用的に成長した飛行船の全長は東京駅ほどもあり1万キロも飛べて三週間で世界一周をした。WWI中は偵察に爆撃に大活躍をする

爆発的に燃えたのは、浮揚ガスが水素だったから。ヘリュームだったら燃えなかった。当初ヒンデンブルグは、ヘリュームガスで設計されたのだが、完成間際に輸出国アメリカの輸出禁止で、仕方なく水素仕様に設計変更したものだった。

一方、気球の方も発展活躍した。WWI中は観測、偵察に。対敵機の阻害気球などはWWIIにまで生き延びている。また、気象観測などの平和利用もあったが、世界をアッと云わせた使用法を考えついたのが日本陸軍。1万メートル上空を西から東へ流れる偏西風、ジェット気流に乗せ、紙製の風船に爆弾を吊し、アメリカ上空で落とす、いわゆる風船爆弾というやつである。

「こいつは大変」とアメリカでは大騒ぎになったが、厳重な報道管制を敷いたので、爆弾の被害と恐怖が日本に伝わらず、日本陸軍は効果無しとの判断で中止してしまった。現在でも変わらない日本の諜報活動は、昔からの伝統、粗末なものである。