【車屋四六】ライト兄弟の世界初飛行はガセネタ?

コラム・特集 車屋四六

前回、自動車用と飛行機用は別の世界で発展と書いたが、例外もある。WWII前に活躍した本田宗一郎の「カーチス号」は、その名のように、飛行機カーチスのエンジンを搭載したものである。

大分前になるが、群馬県館林の大西さんが自作飛行機で茅ヶ崎から大島に飛んだ。そのエンジンは、スバルの水平対向四気筒だった。もっとも、自動車用を軽飛行機用に改造は、欧米では日常茶飯事。VWビートルの空冷水平対向四気筒が軽飛行機用に改造販売され、人気があったこともある。

ライトの時代、既にアメリカには航空エンジンが有ったが、ライトは自動車用直列四気筒12馬力を改造、横に寝かせて搭載。理由は、世界初の星形五気筒52馬力を注文したライトには売らなかったからだ。マンリーはライトよりより早く飛びそうなラングレーの方を選んだのである

もしライトにエンジンを売っていれば、後世に名を残しただろうが、これも運である。飛行に成功したライトが「アメリカ人はカッペじゃないゾ」と、パリでデモ飛行する頃には、パワーもアップしていた。ちなみに、1908年頃のデータでは、ボア104xストローク101mmで3941㏄、39hp/1600rpmだった。

さて、ライトより2ヶ月は早く飛行準備が出来た、マンリーエンジン搭載のラングレー機の飛び立ちはユニークで、ポトマック河に浮かべたハウスボートの屋根のカタパルトだったが、川に突っ込んで失敗。が、壊れたままの機体を、1914年にカーチスがフロート付きの水上機に改造修理して飛行に成功した。もしマンリーがライトにエンジンを供給していたら、もしラングレーが陸上機と割り切っていたら。マンリーもラングレーも運の神から見放されていたのだ。

1910年頃、航空エンジンのメッカはフランスだった。ルノー、アントアネット、ルローン、アンザーニ等々。一方アメリカにはカーチス、ドイツにはダイムラーやベンツ、イタリーはフィアットなどが代表的だが、とにかく当時はヨーロッパだけでも70以上のエンジンメーカーが有ったと云われている。

やがて始まるWWIで誕生するBMWが航空エンジンの専用メーカーのように、当時は専門メーカー、自動車屋の兼業、どちらも軽くて強力という飛行機の要求に応えるために、自動車用とは異なる開発設計が続けられたのである。

その頃、熱気球、飛行船、パラシュートなど、飛ぶにしろ落っこちるにしろ、空の世界での世界初はフランスだったから、プライドも並大抵ではなかった。また、自動車も含めて、世界最先端技術では、世界中がパリを中心に動いているという自負があった。

特にパリッ子は気位が高いように思う。小生初の訪仏は1966年。フランス人は英語では判らない振りをする。煙草のROYALを指さし「ローヤル」では「何が欲しいの?」という顔。が、我ながら恥ずかしいカタカナ的発音の「ロワイヤル」だとニッコリ。煙草が買えた嬉しさより腹が立った。一坪ほどの狭い店、指をさして英語で注文した時既に、くそババアは判っているはずなのに、フランス語でなければ知らん顔なのだ。ということを後で、フランス人が恥ずかしながらと教えてくれた。

気位が高いフランス人は、世界初をさらわれたライトの飛行を「ライトの飛行機はカナールだ」と報道した。カナールとは鴨のこと。尾翼が先にあるライト機は先尾翼型、似ている姿から今でもカナール型と呼ぶが、フランスの報道の裏には含みがあったようだ。

ライトフライヤー:兄弟は問題カナール?をパリに持ち込んでデモフライトを計画。機体を組み立て準備完了の写真。もちろん成功してフランス人も納得

カナールのフランス語には、別にインチキとか、ガセネタなどの意味もあるそうで、鴨に似た姿のライト機の世界初飛行を素直に報道したものではなかったようだ。で、本気で眉唾(まゆつば)と信じたジャーナリストも居たようだ、というフランス人がいた。

さて、オートバイの世界初はダイムラーだが、前年の1884年に特許出願のちゃっかり者が居た。英人バトラーだったが、彼のザ・ペトロールサイクルが時速19km/hで実際に走ったのは1888年になってからだから、賢い特許の先行取得だった。こいつはアメリカのセルデンの自動車特許にも共通する。

ロールスロイス改造の装甲車で暴れ回ったアラビアのロレンスは、不死身と称されながらオートバイ事故で死んだように、英国人はバイク好きが多く、1910年頃から数々の名車が誕生するのだが、それは、次の機会に回すことにする。

さて、ダイムラーとベンツ、自動車はドイツで誕生したのだが、発展はフランスでだった。“自動車はドイツで生まれ・フランスで育った”という名文句も生まれている。その中で、車体前方のエンジンで後輪駆動という標準的形式を完成したのはパナール・ルバッソールで1891年のこと。パナールロッドで知られるパナールは、優れた技術者でもあった。

木工業者のパナールとルバッソールは、自動車の将来性に気付いて、ダイムラーエンジンの販売権を契約し、自動車も開発した。が、未知の飛行機開発で誰もが鳥のイメージから脱しきれなかったように、自動車の開発では馬車のイメージが付きまとった。

パナール・ルバッソールの一号車も正しく馬車の延長線上だったが、二号車では前エンジン後輪駆動のFR。それが現在までも続く自動車標準形式の誕生だった。同じ頃、一流自転車メーカーのプジョーも、自動車の将来性に着眼して自動車を開発したが、やはり馬車スタイルだった。ちなみに、プジョーの最高速は10km/h、パナール・ルバッソールの方は17km/hだった。

ライト機の図面:世界中が動力飛行機開発を目指すがライトは滑空機での機体構造と飛行理論確立を優先。後に飛行機製作。初飛行は強風が吹く遠地ノースカロライナを選択。反転するペラはトルクを打ち消す目的