【車屋四六】野中重雄の英車遍歴2

コラム・特集 車屋四六

60年頃、東京・赤坂に、日本初のレストランシアターと銘打って「ミカド」開設の準備が進められていた。

総工費19億円、1500席、給仕100名、コック60名という豪華さで、棟方志功など一流芸術家の壁画、絵画、彫刻に金を惜しまず、一個8000円に驚いたガラスの灰皿はバカラだった。

昭和35年頃のことだから、大卒初任給が1万5000前後、灰皿2個分の頃である。

経営者は、名古屋のキャバレー、パチンコ、観光バス等で財をなした山田泰吉。ショーの経費だけで1日100万円必要で、当時としては高額な入場料、男2500円・女2000円では、満席でも経費が上回る経営で、やがて倒産の憂き目を見るのだが。

ミカドの建設計画が進行中、先輩は、映配を辞めて、ミカドの取締役になった。

先輩の担当は、世界の芸能界に顔が利くことで、パリのリドから名物のブルベルガールズを、ニューヨークのラジオシティーからロケットガールズを、またフランク・シナトラなど著名なエンタテイナーを呼んで舞台を賑わし、外貨不足で外国旅行が出来ない日本人を、大いに楽しませてくれた。

ある日、友人の名刺を持つ、如何にも田舎という爺さまが先輩を訪ねてきて、鰐皮の財布を取り出した。

「あのフランスの踊り子を一晩買いたいんだが、20万円ほどでどうだろうか」

「もちろん断ったヨ・助平そうな顔した爺さんだったヨ」といった、エピソードを聞かせてくれたこともあった。

先輩は一本気な性格の持ち主で、経営者と意見が合わずに退職した。他の重役仲間が懐を肥やしているのに、先輩は裸一貫だった。

「野中さんは欲がない」と云ったら、ベントレーくらい買っといてもよかったかな、と笑っていた。その頃に乗っていたのはダイムラーだが、コンケストと名付けられた中型だった。

ホテル・ニュージャパンから出る野中先輩運転のダイムラー・コンケスト。このホテルは後年火災で全焼、死者を出し、廃業したことで知られる

ボクスホールでケチは付いたが、ローバーでヨーロッパの高級を憶えた先輩は、もっと良いのはないものかと云いだした。で、見つけ出したのがダイムラーだが、こいつは売り物ではなく、山本春海という立派な名前の車ブローカーの自家用車だったから、手に入れるのには骨が折れた。

が、なんとか口説き落として、65万円。大卒初任給が二万円ほどの頃だった。

コンケストは廉価版ダイムラーとはいっても、上部が凸凹の伝統のラジェーターは本物の銀メッキ。ヘッドランプの反射鏡も銀メッキで、独特で柔らかな光には貫禄があった。インパネやトリムは、素晴らしい木目のローズウッド、黒革のシートと共に、何とも云えぬ品格の重さを感じた。

そして四速プリセレクタードライブ。静粛でバランスの良い直列六気筒エンジン、静かで乗り心地もひときわだった。68リットルタンクを満タンにしたら、3000円程支払った記憶がある。昭和30年頃1リットル37円程だったガソリンは、37年頃には45円程になっていた。

ミカドを辞めてから、英国映画の日本総支配人の依頼があったが「給料とロールスロイスを支給しろと条件を出したら梨のつぶて」と笑っていた。

ミカドを退職した後は「もう宮づかいは辞めた」と云ってフリーになり、東宝系の洋画輸入会社“中央映画”や、戦前からの老舗で叙勲された川喜多長政社長の“東和映画”などのアドバイザーなどで忙しそうだった。

加えて、先輩は多芸な人物で、宮づかい中から二足のワラジを履いていた。例を出せば知っている人もいるはず。

「チクショー007やっとくンだった」

未だ映画化されない頃、単行本の翻訳を頼まれたのが先輩だった。ちょうど忙しい時と重なったので断ったが「あれやっとけばロールスロイスくらい買えたのに」。

その後、井上一夫の手で翻訳されたあとに、映画化で御承知の大ヒット。「別荘なんか買ったらしいヨ」と悔しがっていた。

「ミスターロバーツ」も同じ轍を踏み、名優ゲイリー・クーパー主演の映画化で、こいつもチクショーと云っていた。が、スーパーインポーズは先輩だった。

SFなどが好きな人にもお馴染みの筈。カーター・ブラウンやエド・レイシーなどの翻訳が角川ポケットブックなどから出ている。

翻訳で最も得意とした、と云うよりは仕事だったのは“スーパーインポーズ”。映画の画面に出てくる例の日本語の字幕だ。それで「ミスターロバーツ」また「第17捕虜収容所」「ガンジー」「未知との遭遇」など、ヒット作品も多く手がけた。

専門用語や特殊用語が多く出てくる飛行機もの、自動車もの等では、私が呼び出されて翻訳に協力したものである。

「コンコルド」は、超音速機の機長アラン・ドロンがハイジャックされるという話。「済まないがちょっと来て」と、コロンビア映画の試写室に呼ばれて手伝った。ロイ・シャイダーが、ロス警察のヘリコプターで暴れ回る「ブルーサンダー」が最後の協力となった。

試写室を出て、麻布の自宅まで送ってくれた先輩の愛車は、BMWだった。

「この次合う時には新車になるから」

これが先輩から聞く最後の言葉だった。BMWを売ってから、急な脳腫瘍で軽い気持ちで入院したそうだが、そのまま他界した。野中先輩の葬儀は、青梅街道沿いの宝泉寺で、告別式の司会がいそのてるを(有名なジャズ評論家、解説者)で、会場は悲しさに沈み込んだ。

今でも、ミノックスと呼ぶカメラが手元にある。ドイツのスパイカメラで「死刑台のエレベーター」を見て欲しがったら、カンヌ映画祭の帰り道、ハンブルグ空港の免税店で買ってきてくれたものである。

ミノックスB型:ドイツ製スパイカメラ。特殊フィルムで40枚撮り。ストラップの玉は書類など接写で距離計となる

日本人の外国旅行などとんでもない時代だから貴重品で、たしか100ドルだった。当時の換算レートで3万6000円だが、日本のヤミ価格だと8万円ほどもした。

同じ映画で、一晩中オイルが持つわけがないというライターを、ダンヒルのガスライターと教えてあげたこともあった。