【車屋四六】最後のメルセデスベンツ~190シリーズ~

車屋四六 コラム

1982年に、ダイムラーベンツから突然コンパクトカーが登場して、世界中に大きな波紋が広がった。

登場したコンパクトカーの名は「190シリーズ」だった。それまでのベンツの印象といえば、高級な大型車専門メーカー。そんな会社が、何故コンパクトカー市場に首を突っ込むのか、と誰もが感じたからだった。

「高級料亭の吉兆が回転寿司を始めた」というような驚きを世界に発信したと、当時原稿に書いた憶えがあるが、世の中どうなるか判らないもので、御承知の通り、名門吉兆は08年に信用を失う。

が、、先行き判らぬというなら、ダイムラーベンツについても、190くらいで驚いてはいけなかったのだ。その後、コンパクトどころかAクラスを開発、軽自動車もどきのスマートにまで手を広げたのだから。そんな今日を、誰が想像できただろうか。

それはダイムラーベンツの将来予測で、これまでの少量生産高収益では21世紀に生き残れないと判断したのだろう。生き残るためには、数で勝負ということだったと判断したのだろう。

その後、世界の自動車業界に、400万台クラブという言葉が流行ったように、21世紀に向かって生き残りを賭けた合併劇が、世界中で繰り返されたことを憶えていることと思う。

当時メルセデスでは、190の開発を石油危機がきっかけだったと説明していたが、実際には、やがて業界は数で勝負ということになるだろうと、ダイムラーベンツの首脳は読んだのだと思う。

箱根のヤナセ主催、190の報道試乗会に参加したのは83年で、TVの”お化け番組”を想い出す。NHK朝の連ドラ”おしん”が、何と60%という驚異的高視聴率を上げた年だった。

結論から云えば、我々の心配をよそに、190はコンパクトだったが高級仕上げで、メルセデスの名を汚すものではなかった。フラッグシップのSクラスからの流れを汲み、丁寧に作り込まれた高級ベンツのミニチュア版だったから、心配は安堵に変わった。

太め大径ハンドル、シフトパターン、インパネ回り、座り心地、どれもが正真正銘伝統のベンツだった

ベンツは車を造る時に、人の手を使って丁寧に作り込む。この手法は今にして思えば、この190が最後だったように思う。これ以後のベンツは、日本流にロボットを多用する、合理的大量生産方式に傾いていったようだ。

190のスタイリングが、Sクラスからの流れを汲むことは前述したが、大きな特徴は一本アームの大きなワイパー。左右に大きく振れるたびに、複雑な上下動が加わる様が面白かった。

エンジンは二種類あり、直4SOHC1977㏄を、機械制御の燃料噴射装置のLジェトロニクで90ps/5000rpmという機種と、電子制御燃料噴射のKジェトロニクで122ps/5100rpmという機種で、写真の190EはKジェトロ方式だ。

Kジェトロは、基本的にはLジェトロで、燃料供給を電気的に計算して適正量を供給するという現在の方式に、当時は未だ信頼性がなく、機械式とのコンビで電子制御の不具合を回避する巧妙な仕掛けだった。

当時、この小型市場の主流はFFに変わりつつあったが、Sクラスのミニチュア版らしく、FRで仕上げられていた。

試乗したのはKジェトロ搭載の120馬力エンジン搭載の190E

おかげで小さいとはいえ、伝統のベンツの乗り味を上手に演出していた。サスペンションは、前輪マクファーソンストラット。後輪がスペースリンク式と呼ぶWウイッシュボーンの変形。4輪ディスクブレーキ、タイヤが175/70HR14という組み合わせで構成されていた。

インテリアも、上級のベンツから乗り換えて何の違和感も湧かない見慣れたレイアウトで、小型ながら革張りシートが豪華だった。ただ、上位車種からの踏襲で、厚いドア、重厚なシートなどが災いして、同サイズの日本製セダンより室内に狭さを感じた。
感心したのは、2L搭載の190は日本で5ナンバー登録が可能だったことである。

嘘か本当かは判らないが、ベンツが大量に売れる日本市場を考慮して、日本の5ナンバー規制サイズ内に収まるよう、サイズが決定されたと云われた。で、日本では5ナンバー登録が出来る貴重なベンツだった。

もしそれが本当だったとしたら、強烈な要望でそれを可能にさせたヤナセは、輸入車業界のドンといわれたように、強い力を発揮できる代理店だったのである。

190の評判は良かった。そして、後日輸入されたディーゼルの走りも素晴らしく、出来れば手に入れたいと本気で考えたほどの良い仕上がりだった。

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