【車屋四六】大日本の帝都空襲 ~ノースアメリカン・B25~

コラム・特集 車屋四六

自動車メーカーというものは、戦争が始まると兵器の生産に転換するのが常識だ。兵器は最高の消耗品だから、流れ作業が得意な自動車産業は打って付けなのである。GMに続き、世界第二位のフォードもしかり。さすが大メーカーだけに、多種の兵器を送り出した。

そんな兵器のうち、最も有名で大量に生産したのがジープ。本家のウイリスより生産量が多かった。有名なゼロ戦が、開発した三菱より、中島飛行機の方が生産量が多かったのと同じだ。

ジープの他、空冷航空エンジン、機関銃、機関砲、水陸両用車、その他諸々だが、変わり種としては飛行機もある。

ノースアメリカンB25ミッチェル爆撃機。ノースアメリカン=開発製造会社名。B=爆撃機の識別記号。25=米軍の型式。ミッチェル=1920年代の名将、ジェネラル・ウイリアム・ビリー・ミッチェルを偲んだ名前だそうだが、彼の経歴については、そのうち調べてみようと思っている。

今回は脱線して、このB25の説明をしようと思う。1998年、ロサンゼルスに近いチノ市の航空博物館に行ったことがある。

金を払えば第二次世界大戦中の何種類かの飛行機に乗れるので、私はB25を選んだ。

僅か20~30分のフライトだが、前部銃座から写真を撮ったりして楽しかった。茶目っ気たっぷり、山肌をすれすれに飛んだパイロットは、降りてから「怖くなかった?」と聞いたから「私もパイロットだ」と応えると、少々物足りなそうな顔をしていた。

搭乗前のB25の前で筆者と鈴木五郎。前方銃座と操縦席横に12,7㎜機関銃

私にとっては楽しいフライトだったが、WWⅡを知る日本人にとっては、嫌な思い出が甦る爆撃機でもある。

それは1942年だから、昭和17年4月18日のことだった。

戦争も半ば過ぎてからの報道はウソ報道だったが、初めの頃は本物で、新聞やラジオから、連戦連勝景気の良い知らせに日本中が耳を傾け、浮き浮きとしていた。

そんな矢先の日本本土空襲だった。それは日本人が初めて体験する空襲だった。当時、東京のことを、大日本帝国の首都ということで「帝都」と呼んでいた。

飛んできたB25は全部で16機。米軍第18機動部隊所属の航空母艦ホーネットを発進、1300キロの彼方から飛来したものだった。

当初の計画では、もっと日本に近づいてからの発進だったのだが、監視船と思われる日本漁船に遭遇したことで、急遽発艦したものだった。おかげで最終目的地まで届かず、燃料切れで日本軍に捕まる機体も出たりした。

とりあえずノースアメリカンB25ミッチェル双発爆撃機の諸元を紹介しておこう。

全長16.1m、全幅20.6m。ライトサイクロン空冷星形1700馬力x2=3400馬力。最大速度438km/h。航続距離2175km。乗員6名。爆弾1360㎏。12,7mm機関銃x12。

日本空襲はハリウッド映画にもなった。45年製作、スペンサートレーシー主演のMGM作品で”東京上空30秒”だった。

奇襲攻撃だから、低空をフルスピードで飛びながら爆弾投下、機銃掃射という、目標破壊ではなく、取り敢えず爆撃をすれば目的は果たすという、戦意高揚の空襲だった。負け続けるアメリカ軍に、意気消沈のアメリカ国民を刺激する目的だったのだ。

で、結果として目的は果たしたようだ。

映画では、元来空母発進など考えていない重い爆撃機を、如何に短距離で離陸させるかという訓練を繰り返していた。奇襲攻撃の提案者は、ドーリットル中佐で、猛訓練の結果離陸技術を確立したのも彼だし、奇襲編隊の陣頭指揮を執ったのも彼だった。

空母を発進した16機の内13機が、丁度昼飯時の帝都に進入、分散して下町、品川、蒲田、早稲田、川崎、横須賀などに爆弾投下したが、幸いなことに被害そのものは少なかった。

が、荒川では焼夷弾を宣伝ビラと勘違いした子供が落ちてきた塊に駆け寄り、直撃で数人が死んだりした。

13機とは分かれた別動の2機は名古屋に、1機が神戸を空襲して、それぞれが東支那海に脱出、中国の米軍基地を目指した。が、燃料切れで中国の日本軍占領地に不時着して捕虜になった者も居た。無理な早期発進が原因だった。

B25は高速爆撃機で、38年にプロトタイプが完成、陸軍に正式採用されて開戦から終戦までの5年間に1万1000機も造られて活躍した。主に欧州戦線で活躍、イギリスやソ連にも貸与されて、ドイツ爆撃に従事した。

B25はハリウッドでも活躍した。

ジョン・ウエイン主演”太平洋の翼”。チャールトン・へストン主演”ミッドウェイ”。スティーブ・マクイーン主演”戦う翼”。またTVで見たが、ドイツ爆撃で被弾したB25の”世にも不思議な物語”や、題名は判らないがB25のテストパイロットが冷凍保存されて蘇生した話等々、B25が準主役のような映画が沢山作られている。それほど、アメリカ人には親しみのある、有名な爆撃機でもある。

負け戦にいらだつアメリカ国民の戦意高揚が目的の日本空襲は、目的を果たして喝采を博し、アメリカ中が打倒日本に燃えた、と戦後になって聞いた。

最後に、フォードがこのB25爆撃機を製造した工場は、戦後の新鋭自動車メーカーのタッカーが払い下げを目論んだが、デトロイトの陰謀で流れ、最後は造船王カイザーの手に渡り、カイザー、フレイザーが生産される話は、いずれまた。

フォード・ウイローラン工場で完成間近のB25爆撃機
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