【車屋四六】東京駅 ~1910年代後半の風景~

コラム・特集 車屋四六

長い歴史を誇る、東京駅のステーションホテルが数年前に休業した。どうして?と思ったら、駅をリフォームするためだと云う。

現在の東京駅の姿は、右と左と中央に角錐形の屋根が尖っているが、私が両親と共に乗ったり降りたりした子どもの頃、東京駅の両端の屋根は丸い王冠のようなドーム型だった。なぜ丸から角になったかというと、太平洋戦争中B29の爆撃でドームが破壊されて、戦後に修復しようとしたときに、ドームは金がかかるからとの理由で角錐型になったのだそうだ。

食べる物も、着る物も無く、住む所も復旧しなければならない敗戦国の貧乏経済で、いくら日本の玄関である東京駅といえども、安上がりに仕上げなければならなかったのである。

手元に交通博物館蔵とある1枚の絵はがきがある。ドーム時代の古いものだ。

そもそも日本の鉄道計画は、新橋から出発の関西方面、上野から東北方面ということで始まった。最後に新橋と上野の両拠点を結ぶ中央停車場を、天皇の住まいである宮城(きゅうじょう)、今で云う皇居の正面に置くということで、目出度し目出度しということだったのである。

その中央停車場は、第一次世界大戦中の1914年に完成して、東京駅と命名された。駅の設計者は、日銀本店などを手がけた辰野金吾で、赤煉瓦と白い石のコンビは辰野式と呼ばれ、日本にたくさんの名建築を残した名建築家である。

さて、駅前の絵には、たくさんの情報が埋もれているので、今回は、その絵解きをしよう。

この絵はがきの作者は自動車には詳しくないようで、5台の自動車は全部同じ車種で、右ハンドルとウッドスポークという、当時の代表的形態で書かれている。赤い車の客席に坐る婦人の髪型は、流行の203高地と呼ぶやつだ。明治生まれ、私の母親の娘時代の写真にも203高地に結ったのがある。203高地は日露戦争の激戦地、乃木将軍が悪戦苦闘の末に、ようやく攻略した丘陵だ。

車を拡大して見てみると、前照灯、車幅灯ともにアセチレンガス型のようだから、推測してT型フォードなら1914年型。

フォードT型(1915年型):絵はがきとほぼ同じタイプだが、写真の方が上級グレードのよう

歩く姿に外人家族もいる。日本人の大半は和服で、男は、洋服なら当然だが和服でも帽子を被り、そしてステッキを持つのが紳士の定番のよう。女は洋髪より日本髪が多い。203高地が2人。巡査はサーベルを下げ、陸軍の兵隊は剣を下げ、水兵は既にセーラー服である。画面中央の駅に向かう夫婦連れに、柳行李を担いで従うのは出入りの職人だろうか、半纏姿でニッカボッカを履いている。職人など親方の定番的ファッションだった。

太平洋戦争が終わり、GHQ命令で教育法が変わるまで、ということは私が子供の頃、字はすべて上から下、右から左へ書き、読むものだった。書物も新聞も、公文書も看板もみなそうだった。だから、左端にある白い看板の「入」は左へ入り口と続くのだ。

記憶では、右の赤煉瓦小屋は交番だった。その下のオートバイは、時代から考えてインディアンだとすれば、多分1910年代後半の車である。人力車が3台、遠くの馬車は赤いから、たぶん郵便馬車だろう。

空には飛行船と飛行機が2機。日本で飛行船が有名になったのはドイツから世界一周のツェッペリン号がドイツから霞ヶ浦に飛来した1928年である。が、絵のは小型だからもっと初期の飛行船ということになる。日本陸軍が飛行船に本気で取り組み始めて、所沢→大阪間の飛行に成功したのが1916年だから画家は、そのイメージで書いたものだろう。

2機の飛行機は、ファルマンのようだ。飛行機の日本初飛行は、1910年代々木練兵場での徳川大尉と日野大尉だが、フランスで飛行術を習得した徳川大尉が、帰国時に持ち帰ったのがファルマンだった。ちなみに日野大尉が持ち帰ったのは、ドイツ製グラーデ機。

それまで馬鹿にしていた飛行機の重要性に目覚めた陸軍が、ファルマンの製造権を買い、国産化したのが1915年。その性能は、ルノー製V8で90馬力、最高速度70㎞で2人乗りだった。

WWⅠでは連合軍側だった日本は、その日本製ファルマンで当時は支那と呼んだ青島のドイツ軍陣地を爆撃というと格好良いが、実際には煉瓦を投げ落としたというのが実話のよう。

くどくどと絵から拾える情報を書き連ねたが、結果として、午前9時5分の東京駅は、春いまだ寒きころで、時代は1915年から1920年の間と推測される。

たった1枚の絵葉書なのに、実に多くの情報が詰まっているものだ。画家は、当時の風物、風俗などから、カルチャーショックを受けて強い印象を受けたものを、片っ端から詰め込んだようだ。

ただ一つ残る疑問は、遠目に桜が満開だが、その季節に防寒コートを着る必要があったのだろうかということ。

東京駅の航空写真:雪の翌日のようで、八重洲口は未だ未整備で掘り割りも見える。右下の丸ビル完成が大正12年で、右上の欠けが複葉機の主翼だから、空撮は大正末期と推測される