【車屋四六】リヤカーというクルマについて

コラム・特集 車屋四六

昭和一桁生まれの私が子どもの頃には、街中にリヤカーがあふれていた。

飯台(はんだい)を天秤棒で担いでくる魚屋もいたが、八百屋、冷蔵庫の氷を配達する氷屋、炭練や炭の燃料商、いろんな商人達は、どこも自前のリヤカーに荷を乗せて、家まで配達にきた。

当時、自転車の荷台に載らないような荷物運搬の主流はリヤカーと大八車で、ほかにスピーディなオート三輪車、そして大物運搬は馬車か牛車だから、東京市内にも、そこら中に馬糞や牛糞が落ちていて「裸足で馬糞を踏むと背が伸びる」と云われて、実行した遊び仲間もいた。

今回はリヤカーについて考える。きっかけは、07年11月23日の日本経済新聞の文化欄で「路傍の夢運ぶリヤカー」18歳で静岡から上京、リヤカー職人となった山田光男氏の文を読んだのが切っ掛けである。

リヤー=後部、カー=クルマだが、リヤカーのネーミング、実は和製英語だったようだ。リヤカーは、大八車をヒントに生まれたものらしいが、ネーミングは、舶来オートバイの側車=サイドカーがヒントで、脇についているからサイドカー、後ろならリヤカーだろう、ということのようだ。

江戸の頃からWWⅡ前までの大人達が、駄洒落や言葉遊びが大好きだったのを覚えている。

山田氏の就職先は村松リヤカー製作所。  ネットで調べたら、荒川区千住の㈱ムラマツ車輌で、現存する数少ないリヤカーメーカーで、写真(右)はホームページからの引用だ。

昔の徒弟制度時代は「技術は盗め」だから先輩は教えてくれない。なのに失敗すれば怒鳴られる。でもへこたれず、今では最古参だそうだ。

今も昔もクルマは手作り。鋼管切断、曲げ、溶接など、多くの技術習得が必要。昔の鋼管や工作機械は粗悪だったが、近頃のは上等になって楽になったものの、ハンドルなど微妙な曲線を出すのは今でも勘と経験が物をいうのだそうだ。

さて、リヤカーは人が曳くか、自転車で曳くかだったが、WWⅡ後になると原付二輪車でも曳くようになった。やがて日本経済が楽になるにつれ、人気がなくなり、われわれの目に入る機会が減っていったが、実は今でもリヤカーは健在なのである。

最近は乗用車にも積める折りたたみ式もあるが、大半は写真のような昔風オーソドックス型だ。WWⅡ前から、八百屋、魚屋、花屋、金魚売り、風鈴売りなど、物を運ぶ商人たちのリヤカーだったが、屋台用は今でもたくさん注文があるそうだ。冬になると見かける、焼きいも屋、おでん屋、焼鳥屋などは売り上げに波が少ないのだ、と書いてある。屋台は塩気の多い食品が多いから、腐食に強い太くて厚みのある部材を使うというのは、新聞を読んで初めて知った。

いずれにしても近頃見かけなくなったと思ったのは思い違いで、軽トラや1BOXの普及で商人たちの自家用が消えただけで、工事現場、屋台用に、相変わらず需要があるそうだ。近頃では、商売向きに使い勝手を考えた注文も多いという。

基本的に勝手な注文にも門前払いをしないと云う。もっとも物好きな社長が、ホイホイ受けてしまうので、尻ぬぐいが私の役目とチョッピリぼやきも感じられる。が「できない」とはいいたくない、と職人魂も見せている。

10年ほど前、自転車で狭い道を走るという宅配業者の注文で開発したリヤカーが、意外に好評なのに加えて、最近では道交法改正で駐禁強化の追い風で売れ筋商品に成長したとある。

リヤカーと英語らしい呼び名だが、大正初期に日本人が発明した純国産商品で、時代の需要に対応しながらしぶとく生き抜いてきたが「物を運ぶ仕事がある限り、形を変えても生き残るはず」と締めてくくっている。が、山田氏のような立派な職人の跡継ぎが生まれてくるかは疑問である。

太平洋戦争直後の下町風景:自転車は庶民の交通手段と荷物運搬用だった。リヤカー→大八車→オート三輪→トラックと荷の量が増えスピーディーになる