【車屋四六】フラッシュサイド革命

コラム・特集 車屋四六

車の横腹が平らで凹凸がないデザインをフラッシュサイド・ボディーと呼ぶ。WWⅡ以前、車には四輪をカバーする泥よけ=フェンダーがあったから、乗用車の横腹は凸凹だった。

フラッシュサイドの元祖はフォードと云われているが、カスタムカーなどを除き量産車ではクロスレイ…米国では珍しい小型車専門で、WWⅡ中も開発を続けていたようで、終戦直後の46年にフラッシュサイドの新型車を登場させている。

二番手は、造船王から転向のカイザーで47年。三番手は老舗ハドソンと高級車のパッカーが48年。そしてフォードが49年。
その49年型が111万8740台生産されたとなれば影響力は絶大で、元祖と認められても仕方なかろう。同年リンカーやナッシュもフラッシュサイド化するが、生産量ではフォードの足下にも及ばない。

WWⅡ終戦後、生産再開初のフォード一号車はホワイトハウスの庭でトルーマン大統領に贈呈された

{30才ヤングフォード7200万ドルの大博打}ニューズウイーク誌・{ヤングフォードは親に似ない子}エスカイヤ誌、というように世間は発表された斬新スタイルの失敗を予測していた。

ヤングフォードはヘンリーフォードが嫌いな孫だった。が、社長の座を譲った息子エドセルが50才の若さで早逝すると、43年社長に復帰するが、頑固者ヘンリーは夫人の説得で、不本意ながら45年に嫌いな孫に社長の座を渡したのである。

が、その頃のフォードは、戦前のままを固執する経営方針で赤字なので、世間は倒産を予測していた。が、実権を握った孫は大改革に手を付け、その一端として誕生したのがフラッシュサイドだった。

49年/昭和24年、閉鎖された証券取引所再開・電力制限解除で13年ぶりに街のネオン復活・風船爆弾連想と禁止のアドバルーン広告再開・料飲禁止令解除で飲食店が再開したが主食の米や麺は配給切符必要で、まだ日本は敗戦を引きずっていた。

フォードのフラッシュサイド、いや孫のヘンリー二世の大改革は成功で、50年にはクライスラーを追い越し、54年には年間生産量トップのシボレーも抜いて、57年に150万台という年間生産記録を打ち立てたのである。

50年マーキュリーも人気のフラッシュサイドに衣替えした頃、他社も後を追い、51年クライスラーとヘンリーJ、52年エアロウイリス、53年キャデラックとビュイック、54年コルベット、55年シボレーとポンティアック・デソートとプリムスと、アメリカ中から泥よけが消えていった。

フラッシュサイドではフォードより兄貴分カイザーと筆者/六本木キャンプPX前で(現在ミドタウン

一方、ヨーロッパでも英国フォードからコンサルとゼファーシックスが、ドイツフォードからタウヌスが、フランスフォードからベデットと、欧州もフラッシュサイド化の幕が切って落とされた。

その後は御承知の通りで、世界中の乗用車から泥よけが消えて、平らな側面が増えるのと裏腹に、乗降に便利なステップが消えていった…が、近頃ではデザインで差別化をはかるために、凸凹でアクセントを付ける風潮も見られるようになった。