【車屋四六】想い出せない50年代後半の車の写真

コラム・特集 車屋四六

この写真だれから貰ったのか思い出せないが、物書き仲間の物故者、池田英三か金子寿麻呂、浅草の江戸っ子佐藤健司あたりだろう。(写真トップ:オールズモビル、クラウン、ヒルマンと並んでいるが、どこで撮ったのか判らない/昔のカー&レジャー新聞より)
いずれにしても50年代後半の日米の代表車である。

最年長は55年生まれのクラウン…メカとデザイン、日本製乗用車が世界に追いついた記念すべき車だ/全長4285㎜、全幅1680㎜、WB2530㎜、車重1375kg。直四OHV1453cc55馬力で最高100km/h、101,5万円。

55年/昭和30年は敗戦から10年目、物作りの技術も回復、世界初トランジスタラジオ/東通工(ソニー)・日本初電気毛布1.3万円・日本初電気釜/東芝3200円などが登場した頃である。

ちなみに50年代前半までの日本製乗用車は金満家には相手にされないレベルのもので、53年登場の日野ルノー、いすゞヒルマン、日産オースチンだけが、といっても三台は、世界でもベストセラー車のライセンス生産だから、高い完成度は当然だった。

いすゞ製ヒルマンMINX

さて、先頭ビュイック・スペシアル・リビエラは56年生まれ。
GMではキャデラックに次ぐ高級車で、米国では裕福な年配者向けの車。流行の大きく回り込んだフロントウインドウ―と、柱のないハードトップを、うらやましく眺めたものである。

全長5150㎜、全幅1950㎜、WB3050㎜。車重1720kg。自慢のV8はOHV5162ccで220馬力。鷹揚な加速感が人気のATは二速型ダイナフロー。このハードトップ・クーペは一番人気で、これだけで年間11万3861台生産というのだから恐れ入る。

値段$2457は日本円で88.5万円というと安そうだが、当時日本は外貨不足で輸入禁止だから、写真の車のオーナーは日本人が買える3年目の中古に、500万円は支払ったことだろう。

56年/昭和31年は{太陽の季節}石原慎太郎が芥川賞受賞…その映画化に端役で石原裕次郎登場、それが大スターの出発点だった。実はこの映画、五社協定の包囲網で苦しめられていた、日活の突破口になった記念作品となる。ちなみに五社とは、松竹・東宝・大映・東映・新東宝である。

しんがりは最後部に見えるヒルマン・ミンクス・ジュビリー・スーパーDX。53年ノックダウン開始後、順次国産化が進み、58年10月に100%達成を記念して誕生したがジュビリーだった。
余談だが、ヒルマンは提携時の53年に4900万円、あと生産1台毎に25ポンド=2.7万円をルーツ社に支払うが提携条件。大卒初任給6000円、蕎麦うどん20円、ラーメン30円、豚カツ130円の頃の話しだが、300円の鰻重は大学生の私には無理だった。

ヒルマンはノックダウン時に直四OHV1255cc37馬力だったが、56年に1390cc46馬力に、ジュビリーは55馬力を搭載して最高128km/hだった。全長4095㎜、全幅1555㎜、WB2438㎜。車重1050kg。100万円。クラウン同様、前輪Wウイッシュボーン/後輪リーフ。

以上三台…社用では使えないクーペのビュイックの持ち主は多分かなりな金満家。当時クラウンは自営中小企業経営者、ヒルマンは裕福家庭の女に人気があった。ちなみに男は日産オースチンだった。