【車屋四六】デトロイトの陰謀
タッカーとは不愉快な車である…フランシス・コッポラとジョージ・ルーカスがコンビの88年作{タッカー}の日本公開があったが取材で駄目…招待状は長男へ…帰宅した長男が「面白かった」を連発するので不愉快きわまりないのである。 […]
続きを読むタッカーとは不愉快な車である…フランシス・コッポラとジョージ・ルーカスがコンビの88年作{タッカー}の日本公開があったが取材で駄目…招待状は長男へ…帰宅した長男が「面白かった」を連発するので不愉快きわまりないのである。 […]
続きを読む{お湯を掛けて三分間}有名なCFで登場した即席チキンラーメンは、世界的な大発明になった。それが登場した昭和33年/1958年、アメリカでフォードの画期的乗用車が誕生した。 フォード・エドセルだが「エゼルだよ」というアメリ […]
続きを読むサイドカーから大衆車のコーチビルドへと、着々成功しながらステップアップするライオンズ青年の次の目標は、自前の四輪乗用車の開発だった。 1931年ロンドンの自動車ショーで、一台の高級車が脚光を浴びていた…SS1と名付けられ […]
続きを読む昭和2年/1927年、全世界の自動車保有台数(含貨物)は2458万9249台。大半が米国で2005万台、二位81.6万台英国、三位73.5万台フランス、四位71.6万台カナダだが、9万2698台の日本は当時まったくの自動 […]
続きを読むこの車、日本で見た人は希だろう。私も二回ほどしか見ていない。その名を、オースチンA40スポーツと呼ぶ。写真(トップ)は53年型だが、50年頃から造られているようだ。 オースチンと云えば日産との関連を思いだす。WWⅡ前のオ […]
続きを読む1906年にハーバート・オースチンがオースチン社を創業、22年に送り出したオースチン・セブンは、以後39年までという長きにわたり造り続けて、世紀の傑作となる名車だった。 セブンが受けたのは、小型軽量廉価高性能、そして四輪 […]
続きを読む東名高速が未だない頃、東京から東海道への道筋は、日本橋起点で品川→横浜と行くのが第一京浜国道だが、昭和20/30年代、トラックが多くなり、乗用車族は五反田から横浜という第二京浜国道を走るようになった。(♪夜霧の第二国道/ […]
続きを読むWWⅡ直前、日本の小型車製造は日産とオータが主力で、トヨタは大型車専門で小型の経験はなく、戦争中は、もっぱら軍用自動車やトラック、そして民需のトラックやバスを作っていた。 敗戦でGHQ/連合軍最高司令部が禁止した乗用車の […]
続きを読む1963年5月3日の鈴鹿サーキットで開催された日本グランプリレースで、観客の大半がカルチャーショックを受けた。 日本での、国際的モータースポーツのコケラ落としともいうべき行事は、前年オープンしたばかりの日本初の本格的サー […]
続きを読む63年5月4日、日本初のGPレースなのに退屈レースがあった。 ツーリングカー1000~1300ccクラスで、VWビートルのワンメイクの様相を呈していたからだ。 同クラスのブルーバードが、疾走するVWをよそに、後の方を我関 […]
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