【車屋四六】JAFとオ医者とMGA

コラム・特集 車屋四六

イギリス生まれのMGは、スポーツカーを見れば「MGだ」と代名詞にもなった、日本で一番有名なスポーツカーだった。誕生はWWⅡ前の29年だが、日本では進駐軍兵士が53年型MG-TDを乗りまわすようになってからである。

その後MGは、TFになり、衣替えしたMGAの登場は55年だった。当時のスポーツカーでは人気者MGの生産量は、日本に戦後初上陸のTC約1万台、TD約3万台、TF約1万台、そしてMGA約7万台で、アメリカ市場でドルを稼ぎ、英国経済復興に寄与した。

MGAは、直四OHV・1489cc・SUキャブ二連装で72馬力・4MTで160km/hというライトウエイトスポーツカーだった。
写真のMGAの操縦はSCCJの会員番号147をドアに書いた中村育民…本業は日本橋本町の内科医だった。

写真(トップ)はSCCJの長岡ヒルクライム。あと一息左折でゴールという地点だが原画を拡大すると、助手席に奥さん?娘さん?が、8㎜カメラを回している、とにかくのんびりとした時代だった。

中村さんのSCCJ入会は59年、親友鍋島俊隆が58年/135番で、この二人の推薦で60年に私は入会し会員番号は156番。

私は、63年にヒーレイ100で優勝、64年にはホンダS600でGT-Gクラスに優勝している。ちなみにSCCJは、日本スポーツカークラブの略称で、進駐軍兵士主体の東京スポーツカークラブが、将校達の帰国で衰退したのを、片山豊/13番、佐藤健司/15番、大和道孝/9番などが中心となって’55年に再出発の団体である。

このヒルクライムコースは私道。伊豆長岡に大和館と呼ぶ旅館があり、そこの密柑山に造ったコースで恒例のSCCJ行事だった。というのも、大和館の御曹司が大和さんだったからである。

ヤマト産には悪評もあるが、日本のモータースポーツに尽くした功績は評価すべきで、JAF発足で自動車競技のためできた法規委員会会長が大和さん、副会長に中村さんや佐藤さんなど。

また資格審査委員会会長に湊謙吾/NDC東京会長。多賀弘明/TMSC会長、稲村陽亜/PMSC会長、田中勇/名古屋、中尾忠義/関西、田原源一郎、戸川一雄、宮本正之など21名の委員の中に、中村、佐藤、大和、私も居た。

SCCJラリーでゴールの軽井沢星野温泉前で:MGAに座っている中村さん、左が私

いずれにしても大和さんはモータースポーツに入れ込みすぎて、最後には旅館を手放したと聞いている。

さて話を戻すと、中村さん私との出会いは「SU二連キャブの調整が上手ときいたもので」と、当時友人とやっていた茅場町の修理工場にMGAで来たのが始まりだった。

中村さんのMGの色は赤だが、当時赤は消防車専用で使用禁止だったから、車検が通らない、そこで美年との中央に赤を残して白に塗装して、無事車検通過させた。

もっとも、その白は本来のラッカーとは違う溶剤なので、車検後に洗い落とすと、元の赤一色に戻るのだが、中村さんは何故か気に入ったようで、そのまま乗っていたから、ヒルクライム中の写真も中央に赤線が残っている。

カリフォルニア・サクラメント郊外飛行場でSCCAのレース:スター準備完了のMGA・中村さんのMGAもこんな赤一色だった