【車屋四六】デトロイトの陰謀タッカー3

コラム・特集 車屋四六

官民一体の陰謀の餌食になったタッカーは、告訴されて世間からの注目を浴びるが、その間もマスコミは非難の手をゆるめず“工場内は設備もなく車など生産されていない”と報じた。

が、工場は稼働しており、タッカーは生産されていた。
その車が、現在コレクターが夢中になるタッカーだが、稀少アイテムなので入手困難、当然レストア率が高く、現在動態保存されているタッカーは、全生産量の92%とダントツ記録を誇っている。

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もっとも完成車として世に出たのが、わずか51台では当然と云えば当然なのだが。手当てした在庫部品がたくさんあったのに、たった51台というのには「語るも涙聞くも涙の物語」なのだ。

すったもんだの裁判の結果は無罪…で、会社は存続していたから、生産を継続しようとしたが時すでに遅く、裁判中に失った信用は元に戻らず、莫大な資金も消えていた。
だが管財人が指定された時、会社には1280万ドルの資産があり、生産再開は可能だったが、世間の流れは悲観的だった。

結局、法定管財人が公売したタッカー社の価格は15万6000ドルにしかなかった…彼はそれでもへこたれず、再起を図ったが56年、56才という若さで旅立った。

振り返れば、もしルーズベルト大統領が長命だったら、タッカーの夢は実現していたかもしれないが、現実は{邪魔者は消せ}という当時の邪悪なデトロイトと、自動車族の大物政治家が連んでの陰謀だから、避けるすべはなかったのかもしれない。

実は、完成した51台は、裁判中に陰謀に奮起した従業員が、ボランティアで組み上げたもので、裁判所前にズラリと並べて抗議した車だったのだ。

余談になるが、カイザーフレイザー社も戦後の一旗組だが、潰されなかったのは、斬新安全が売り物のタッカーに対して、常識的な車造りだったと云うことも考えられるが、カイザーは戦中に活躍した造船王で資本は充分で、また戦中の有名なリバティー船の大量生産で政財界に豊富な人脈があり、デトロイトが手を出せなかったのかもしれない。

最後に、48年に発売されたタッカーを専門紙がテストした…先ず燃費は公表通り8.4km/h、最高速度115マイル=184km/hでコーナリングも安定と報告しているが、そんな記事も専門紙では一流マスコミの誹謗記事を覆すことは出来なかった。(写真右:ルーカス+コッポラ作品のパンフはタッカーの詳細を簡略に説明している)

その後、タッカーの斬新技術は、デトロイトの自動車メーカー各社に採用されていったのである。

不運なタッカーが発売された1948年は昭和23年、日本はまだ戦後のドサクサ時代だが、輪タクが消え、道路交通取締法施行、ハイヤーとタクシーのメーター制度化。赤い羽根募金登場、8年ぶりにマッチが自由販売になった。
ファッションでは、ロングスカートやアロハシャツが流行。笠置しず子の♪東京ブギウギや♪憧れのハワイ航路♪湯の町エレジー♪異国の丘♪君待てども♪などがラジオから流れていた。