【車屋四六】トヨタの小型は戦後の新参者

コラム・特集 車屋四六

WWⅡ直前、日本の小型車製造は日産とオータが主力で、トヨタは大型車専門で小型の経験はなく、戦争中は、もっぱら軍用自動車やトラック、そして民需のトラックやバスを作っていた。

敗戦でGHQ/連合軍最高司令部が禁止した乗用車の生産再開は47年。早速、8月にダットサン、次いで電気自動車たま号。10月登場のトヨペットSAは90万円という値段が災いして不人気だった。

トヨタは小型市場では出遅れたが、SAに先立ち4月発売のSB型小型トラックはプレミアム価格がつくほどの人気を得ていた。ちなみにSB誕生時、トヨペットの名は未だなかった。

トヨタはSA発売に先立ち、西条八十・サオウハチロー・堀内敬三などを審査委員としてペットネームを公募、決まったのがトヨペットで、その最初がトヨペットSAだったのだ。

当時は、戦中の統制時代そのままに、オカミが商品価格を決める公定価格/通称{マル公}が存続。政府はインフレ懸念で低く抑えてSBは17万9295円、売れば赤字なのに好評だからなお困る。で、トヨタばかりか、各種業界の苦情でマルコウの廃止が49年。
SBも早速25万9830円に値上して儲けが出るようになり、52年まで生産されて、5年間で1万2796台を売り上げた。 ちなみにSBの諸元は、全長3800㎜、全幅1600㎜、車重1240kg。水冷直四側弁995ccは27馬力。燃料はガロン表示で、積荷1トン時の燃費50km/ガロンと自慢していた(約13.2km/ℓ)。

そんなSBのシャシー流用で、49年にSD型乗用車を完成する。こいつはタクシー業界を我が物顔で走るダットサン対策で、一回り大柄で稼いだキャビンのゆとりで一応成功作となった。
乗用車らしく、スプリングの柔らか仕上げに念を入れた。

トヨペットSD/セダン:SBのシャシー流用スプリングの柔らか仕上げで乗用車らしくなりタクシー業界で成功する

トラックのSBも年々進化を続け、54年フルモデルチェンジでSKBが誕生する。そのころ日本の物流業界は、三輪貨物自動車全盛期で、市場にはダイハツ、マツダ、オリエント、三菱みずしま、くろがね、ホープ、ムサシなど、群雄が割拠していた。
SKBは、その三輪市場に殴り込みを掛けたのである。

殴り込みにあたりSKBは、採算無視の値付けをした。その一見無謀に見える値付けは、初め赤字でも、多く売れれば量産効果のコストダウンで採算が取れるようになるとの博打だった。

博打は、見事に的中して月産3000台。日本初の生産記録を達成し、勢いにのり三輪車を市場から追い出していった。
結果、SKBは{三輪車キラー}と呼ばれるようになる。

SKBは成功{3000台突破記念}として懸賞付き販売で更に追い打ちを掛ける。賞品は、特賞SKBトラック、一等14インチTV、二等スリースピード型電蓄+扇風機+電気ストーブ+携帯ラジオのセット…こいつは当時庶民憧れの家電製品である。

懸賞販売とは別に{葉書一枚で20万円}という懸賞募集も一等20万円、二等1万円、三等2000円、佳作記念品。
それはSKBライトトラックの愛称募集だった。で、決まった名前が{トヨエース}だった。
さらに、買いやすくするために、月賦販売にも力を入れた。ちなみに56年の利息は日歩3銭9厘、年利で14.23%である。

トヨエース:SBから発展のSKBトラックは量産効果発揮で三輪貨物自動車キラーと呼ばれるようになる