【車屋四六】ロータス矢のごとし

コラム・特集 車屋四六

1963年5月3日の鈴鹿サーキットで開催された日本グランプリレースで、観客の大半がカルチャーショックを受けた。

日本での、国際的モータースポーツのコケラ落としともいうべき行事は、前年オープンしたばかりの日本初の本格的サーキットで開催された…それまでの日本では、愛好家やクラブの草レースばかりで、これがFIA公認の国際GPの初開催となった。

いくつかにクラス分けされたレースでは、輸入車と国産車が、ごちゃ混ぜだったが、メインイベントの国際スポーツカーレースでは、日本人が初めて見るレーシングカーに目を見張った。

今にして思えば、どの車も最新鋭ではなく、一世代遅れだったが、レース後進国の我々を驚かせるには充分だった。

AⅠ/レーシングスポーツ・AⅡ/GT-2ℓ以下・AⅢ/GT-2ℓ以上と三クラス混合レースの顔ぶれは、ロータス23/3台、ポルシェ/3台。トライアンフTR-4、フェラーリ、アストンマーチン、ジャガーDタイプ各1台。香港籍のロータス7が本番欠場は残念だった。

ロータス23Bがドイツのロッソビアンコ博物館いあった

優勝はロータス23。チャンピオン・ピーター…ウオー/24才は、ロータス社のセイルスマネージャーで、鈴鹿用に中古の23を購入、それに開発中のコスワース1650ccを搭載していた。

二位マイケル・ナイト/19才の23はコスワースフォード1100cc、三位アーサー・オーエン/45才の23はコスワースフォード1600ccと、3台のエンジン仕様は異なっていた。

そのロータス勢の後方で繰り広げられた戦いも、後々までの語りぐさになる…抜きつ抜かれつ、豪快な排気をまき散らしながらのアストンマーチンとフェラーリの一騎打ち、それにからむポルシェ911カレラを操る、フォン・ハンシュタイン男爵の走りは、RRが何故こんなに走る?と半ば呆れるテクニックの披露だった。

日本初GPレースは国際レースで、我々が初めて見るルマン式スタート…ピット側に並べた車に、スタンド側のドライバーが、よういドンで走り跳びのり→始動→発車という図式である。

まず飛び出した3台のロータスに観客が目を見張った、というよりは{ド肝をぬかれた}のである。何とも形容しがたい加速力で、第一コーナーで後続車に50米もの差を付け、やがてグランドスタンド前を矢のように過ぎ去る早さ、それは初めて見る早さだった。

3日の第一日は20周120.0km、第二日は30周180.12kmで、両日上位の順位は変わらず、4日の平均速度は一位130.973km、二位130.909km、三位127.494kmだった。

GPに冷ややか態度の日産に{瓢箪から駒}的勝利をもたらせた日本車の最速、優勝田原源一郎のフェアレディー1500の109.757kmと較べれば、日本vs海外では、速度に雲泥の差があることを思い知らされたのである。

スタート合図で車に駆け乗るルマン式スタート/国内スポーツカーレース

初日、二日目、結果的にゴールの順番は変わらず、観客はロータスの矢のような走り目を見張り、加減速でノーズアップもダイブもなく、フラットな姿勢を保ったままの旋回、そしてハンシュタインのポルシェの豪快なドリフト走行と興奮の連続だった。

正直、競争自動車といえども、あんなに早く走るとは思っていなかった…{井の中のかわず}の日本人が、カルチャーショックを受けた日が63年5月2日と3日ということになる。