【車屋四六】日本初GP ブルーバードは刺身のツマだった

コラム・特集 車屋四六

63年5月4日、日本初のGPレースなのに退屈レースがあった。
ツーリングカー1000~1300ccクラスで、VWビートルのワンメイクの様相を呈していたからだ。

同クラスのブルーバードが、疾走するVWをよそに、後の方を我関せずといわんばかりに、ノンビリと走っていたのである。
云うなれば{刺身のつま}的存在と云ってよいほどだった。

ブルーバードは、ひとクラス下でもコンテッサ相手に走ったが、この戦いもつまらぬものだった。理由は簡単、日産はGPには無関心、参戦したばかりのサファリラリーに夢中だったからだ。
だからプリンス自動車のように「アマチュアレースにメーカー参加せず」の紳士協定を守ったわけではないのだ。

問題のレースは、VWビートル6台、ブルーバード2台で始まった。当時VWは世界のベストセラー。その最大得意先がアメリカだから、当然のようにチューニングキットが沢山ある。

ということで、12周、72.0㎞レース参加のVWは素晴らしい排気音を張り上げ、誰が聞いても、ただ者ではという気にさせる雰囲気で、優勝者の平均速度は93.6㎞だった。

で、レース結果は、優勝以下ビートルが独占。順位は鈴木義一、竹内達夫、市瀬正至、永井賢一、井原吉治、吉田安政。ノンビリ走りのブルーバード2台は、塚本八郎、原田恵子という順だった。

VWビートルに負けたブルーバード/ベストセラー同士の戦いはドイツに軍配が

ちなみに鈴木義一は二輪の名手で、浅間レースで活躍のあと、ホンダファクトリーに所属して、マン島TTレース出場など輝かしい戦歴の持ち主だったが、5月4日の優勝から半年も経たぬ9月28日に、32才の若さで短い生涯を閉じた。

それはホンダが発売直前のスポーツカーS500で、古賀信生と共に過酷な国際ラリー、リージェソフィアに出場、途中停車するトラックを避けた対向車線でルノーと接触、崖下に転落死したのである。
古賀は肋骨を折る重傷だったが、無事帰国した。

また永井賢一は、いすゞファクトリーの一員となり、富士スピードウエイの第三回日本GPにベレットで出場、一周目、最初のコーナーを曲がったバンクから飛び出し、FISCO最初の犠牲者になった。

強者どもが夢のあと:多くの命を奪い使用禁止になった魔の30度バンク

冒頭に退屈レースと云ったのは、スターティンググリッドにならんだ順番のまま、何周しても同じ顔ぶれが同じ順番で目前を通過、そのままゴールなのだから、迫力などまるでなかったからだ。

一方、スタート後、すぐに水をあけられ、トップから4分も遅れてゴールのブルーバードにも、見せ場はあった…が、それを見たのは第一コーナーに陣取っていた観客だけ。
10周目、オーバースピードで吉田が外に膨らんで転倒したところを、井原が抜いた。それだけなら良くあるシーンだが、吉田は二回転倒後に止まった姿勢が正常だったのが幸いして、そのまま走り出して観客を喜ばせたのである。