【車屋四六】ニッサン70型乗用車

コラム・特集 車屋四六

君が代斉唱と国旗掲揚で教育委との板挟みで高校校長が自殺したことがある。それが尋常小学校に義務付けられたのは、昭和12年/1937年だった。だが、戦前と戦後では環境が違う。今の若者達が歌ったところで、いまさら軍国主義が復活するとも思えないのだが。

昭和12年、日本初国産大衆車と銘打ち日産から70型乗用車が誕生…通称ニッサン号だが、当時、乗用車など大衆とは無縁のものだから、何を指して大衆なのかは理解できないが。

当時の日雇い労務者日当1円50銭、総理大臣月給800円、どう考えたところで、1台4000円を大衆が買えるわけがないだろう。

全長4750㎜、全幅1720㎜・車重1410kg。補助席付で七人乗り。AA型エンジンは直六サイドバルブ3670cc・85馬力。

小型専門の日産に、いきなり大型が作れたには訳がある。1927年創業→40年廃業の米国グラハム社の工場を、図面金型を含め工場丸ごと18万ドルで入手、さらに技術指導も受けて完成したのである。

しかし、第二次世界大戦突入で日産大型車は育たず、戦中は航空機や船舶用エンジンを生産し、戦後ダットサンで自動車生産に復帰する。

日産製ハ40型航空機エンジン

さてニッサン号の発表会は、東京市麹町区丸ノ内の日産本社で、官庁・軍部・学会・報道、各界関係者500人が集まる盛況ぶり。

{強力85馬力発動機・乗用車として美しさを備え・座席広く特種材料高級ヘアロックで柔らかクッションは純国産羅紗とテレンプ張り・平らな床・前窓は安全ガラスで開閉式換気通風良好・全鋼鉄車体・業務用にも好適}とCMで自慢した。

日産の大型車製造には、当時力を増してきた軍部の自動車国産化政策による尻押しがあったようだ。

で、商工務省により早速長距離走行実験実施…北品川→箱根→三島→湯ヶ島→下田→土肥→古奈→熱海→小田原→北品川を無事走破。未整備悪路が続く伊豆半島一周470粁は過酷な走行試験だったろう。

ニッサン号が発売から約二ヶ月後、盧溝橋(ろこうきょう)事件が起き、それから一ヶ月後に上海事変、そして一年後には南京入城と、日本は昭和20年の敗戦に向かって歩き始めたのである。

だが、昭和12年頃の日本は、まだおだやかで、人気の話題は100V/50&60サイクル用電気時計の発売…が、その人気は線香花火のようだった。原因は、家庭に配電される100Vの周波数変動が大きくなり、時計が狂い始めたからだった。

世間は穏やかには見えていたが、軍需工場の増加で電力消費が急増、電力不足が始まっていたので、電気時計が狂い始めたのは、戦争が近づきつつあるバロメーターでもあったのだ。

神風号550hp/480kph、後期型は950hp/510kph

一方、国民的嬉しい話しは、朝日新聞の神風号が立川→ロンドン間を96時間で世界記録樹立。この三菱製の機体、実は世界初の偵察機で、外国技術に頼らず完成した純国産機だった。

その試作二号機が神風号で、英国ジョージ六世戴冠式表敬を旗印に飛んだのだが、真の目的は国威高揚だったろう。

そして機体の方は、97式司令部偵察機として437機が生産され、敵戦闘機を振り切る高速偵察機として活躍した。