【車屋四六】円太郎バスって知っていますか

コラム・特集 車屋四六

大正11年/22年、ライトの名建築・帝国ホテルがオープン。
大正12年、東洋一のオフィスビルが総工費1100万円で丸の内に完成、通称{丸ビル}が東京駅前の三菱ケ原にそびえ立った。

その二棟のビルが、別の意味で素晴らしさを実証してみせた…大正12年9月1日、午前11時58分、帝都を襲ったのが関東大震災、マグニチュード7.9に、二棟はビクともしなかったのである。

この震災で死者10万人、家屋倒壊約13万戸。が、直後の火災で東京の70%、横浜60%が焼失…この惨事で流通関連もズタズタで、食料その他の運搬手段が途絶えた…が、道路は走れない、電車の復旧は時間がかかる。で、急遽浮上した手段が自動車だった。

が、地震から半年経たない翌年1月18日には乗合自動車が運行を始めた。東京市は200万円の緊急予算を組み、10月1日に1000台の乗合自動車をフォードに発注したのである。

さて車輛発注がすむと次の難題が運転手。で、仕事がなくなった市電運転手から1000人を選抜、陸軍自動車学校で委託教育した。
が、にわか仕込みの運転手だからサア大変…そこら中で事故続出、その数2月だけで90件というのだから後始末も大変だったろう。

東京市民の足となったバスには早速{円太郎バス}の愛称が生まれた。市電が走る前に市民の足だった、乗合馬車に箱の印象が共通していたからのようだ。このバスは、資料によれば昭和13年まで走っていたそうだ。

キャビンが立派になった後期円太郎バス・四輪のブラシは水はね防止用

震災後に早い反応で行動を起こした役人が居たわけだが、同様に行動を起こした民間人も居た…梁瀬長太郎、やがて日本輸入自動車界のドンになる人物である。

梁瀬はもとの勤務先・三井物産からビュイックの販売権を取得したが、車は売れず、在庫が溜まりノイローゼ気味…当時、車は木箱入りで輸入されるが、それが山と積まれて「丸ビルより高い」などと陰口が聞こえるほどだったという。

そこで気晴らしのためか、夫人同伴で世界一周の旅に出た後半、英国から米国に向けて出航した船中で「日本は壊滅」と震災の報道が届いた…そこで凡人なら慌てるだけだが、梁瀬は違った。

すぐに船の図書館にこもり、世界の震災後事例を読みあさり{地震後は先ず人が動き始める・必要なのは自動車}だと結論した。
梁瀬は米国に着くとすぐに、ビュイックとシボレー合わせて4000台を発注した…GM役員は「ミスター梁瀬は地震で気が狂ったのでは」と、心配したそうだ。

梁瀬は帰国する船に注文車輛の第一弾を積んで横浜に着いたと…すると出迎えの役員から「在庫は船の車と共に完売・それもプレミアム価格で」という嬉しい報告を受けたのである。

艀から降ろす箱詰めビュイック

これで倒産寸前のヤナセは一挙に立ち直り、WWⅡが終わると息子の次郎が社長に、ヤナセは着々と成長し、日本最大の外車輸入業者になるのである。

梁瀬次郎は、本田宗一郎や豊田英二と共に米国自動車殿堂入りするが「私は吉田茂翁から地下資源に恵まれない日本の繁栄は愛国心・世界と仲良く付き合う国際心が必要と教えられた・戦後日本経済復興での輸出奨励は愛国心、輸入は国際心と懸命に仕事に励んだ」と語ったそうだ。