【車屋四六】ポルシェ356と力道山

コラム・特集 車屋四六

日本が戦争に負けて良かったと思うのは、人権尊重に陽が当たったこと。例えば労働基準法の施行で、それまで当然だった僧侶の過酷修行で、身延山日蓮宗が8時間労働を実施した。

そんなことがあった昭和24年=1949年のジュネーブショーで、注目を浴びたのがポルシェ356。で、356は、ポルシェの古巣シュタットガルトで、51年に月産8台ほどの生産を始める。

その頃、米軍に接収されてメモリアルホールと改名された、元両国国技館で、日本初のプロレスが開催された。
初めて見る乱闘ぶりに、日本人は目を見張ったが、参加の米国、フランス、カナダの選手達の中、日本人選手が大きな話題を。
元相撲関脇の力道山は、日本人初のプロレスラーだった。
戦勝国の白人を、日本人が空手チョップで倒す。敗戦で萎縮中、白人コンプレックスの日本人達は、その瞬間晴れ晴れとした気持ちになれたものだった。

ポルシェ最大の消費国はアメリカだから、輸入元ホフマンインポートの社長要請は影響力大で、生まれたのが356スピードスターで、元来2+2が、完全な2シーターに生まれ変わり、しかも2995ドルと安く、たちまち人気者になり“バスタブ”の愛称も生まれる。

スピードスターのコクピット。簡素なインパネとバケットシート。アルミ三本スポーク木製ハンドルと木製シフトノブは後からの物だろう

その356スピードスターが渡米した54年は、356の総生産が5000台に達した記念すべき年でもあった。

東宝から水爆怪獣ゴジラ誕生した年でプロレス全盛時代だった。
力道山vsシャープ兄弟対決は、合戦関ヶ原的人気で、日本テレビが中継していた。
が、まだ一般家庭にテレビなしの時代だから、盛り場の街頭テレビや街の電気屋の前が黒山の人だかりとなる。ちなみに新橋駅前などの街頭テレビは、ヤナセが輸入の21インチ型で、放送時間になると、係が南京錠を外し開扉する仕掛けだった。

わたしの家は貧しくはなかったが、まだ高価なテレビには手が出ないので、オヤジに援助要請。秋葉原で部品を集めて21インチを自作したのがもとで、母が機嫌をそこねた。
プロレス中継になると近所の人達が見物に押しかけてくる。で、茶菓の接待で、テレビの前に座れなくなったのだ。
夜更けになる大晦日の紅白歌合戦など、本当に困ったものだと頭をかいたものだが“覆水盆に返らず”とはよく云ったのである。
(ふくすいぼんにかえらず=盆からこぼれた水は元に戻らない=起きたことは元に戻らない=取り返しのつかぬ事の喩え)

ラスベガスの博物館で見つけた356スピードスター(写真トップ)は、多分55年頃のモデル。ちなみに1600ノーマル型だったら、空冷水平対向四気筒OHV・1582cc・60hp/4500rpm・11.2kg-m/2800rpm。
ローギアード設定の変速機と軽量仕上げが相まち、軽快な加速力を得て、ゼロ400m=9.5秒は当時素晴らしいものだった。

バブルが膨らんだ頃晴海のオークション会場に登場した356スピードスター。米国式一枚カンバスの幌と柔なサイドウインドーの装着状態

ドイツ製カブリオレは全天候型の立派な幌が常識だが、スピードスターは低いウインドシールド+米国風の薄い幌+取外し型サイドウインドーで軽量化に寄与、またコストダウンにも繋がった。

スピードスターの総生産量4825台。ほとんどが渡米したが、日本でも走っていた。進駐軍米人将校の愛用車だった。

スピードスターの生産は54年~57年だが、356自体の活躍は更に続き、63年のポルシェ911にバトンタッチで生涯を終える。

同年、プロレスのヒーロー、力道山が死んでしまった。
赤坂の、クラブ・ニューラテンクオーターで、住吉一家の若者に腹部を刺されたのがもとで、全国プロレスファンを悲しませた。