【車屋四六】ホンダ初の四輪乗用車はスポーツカー

コラム・特集 車屋四六

オートバイの世界では世界チャンピオン、F1そしてFIIでも世界チャンピオン。そんなホンダの歴史を紐解く鈴鹿サーキットのホンダ自動車博物館には何度も行った。車好きには実に楽しい所だ。

1990年頃だったろうか、かつて愛用したホンダS600を見て懐かしがっていたら「乗りますか」と云うことで乗る機会を得た。さすがに本家本元のレストアは見事なもので、新車以上のコンディションに溜息をついたものである。

私がS600を買ったのは、新潟で大地震があった1964年。売り出されたばかりで東京地区では入手できず、ホンダの知人に頼み立川まで引き取りに行った。

値段は50万9000円。私の居住区から、本来は品川ナンバーのはずが、域外販売で多摩ナンバーなので「おまえ盗んだんだろう」と仲間から冷やかされたのを想い出す。

S600は1964年にS500から進化した。東京オリンピック開催、東海道新幹線開業。谷田部高速自動車試験場運用開始、全日本自動車ショーから東京モーターショーに変わった年である。

おそらくリージェ~ソフィアラリー出発直前のS500

その第9回全日本自動車ショーで注目されたのが、ホンダT360とS360とS500。世界最大のオートバイ屋が四輪車市場進出を目指して開発した四輪車である。

ホンダは四輪市場を目指したとき、二輪で構築した販売網に乗せること目標にした。その後、軽のトラックとスポーツカーの開発に踏み切った。

そのスポーツカーS360は常識破り、突拍子もない車だった。僅か356ccで、当時としては自動車造りの概念からはみ出した高回転。9000回転でブン回すと33馬力という高出力、しかも時速130kmという、総てが常識破りの自動車だったのだ。

また4個のキャブレターを連装し、45度傾けて搭載のエンジンは、精密機械のように仕上げられ、未だ一般的ではない一部の高価高性能車にしか使われないDOHCというのにも専門家は舌を巻いた。

そんな車を開発した中村良夫は、御大本田宗一郎と肌が合わず、結果レース監督に転身したが、やがて「F1の中村」と云えば世界に通じる人物となるのである。

山口県の医者の家に生まれた中村は、帝国大学卒後は中島飛行機で発動機開発に従事、ターボチャージャーや日本初ジェットエンジン開発で知られる。…が、敗戦でお定まりの自動車屋に転向する。

やがてホンダから勧誘を受けると「将来四輪をやる気か・F1にチャレンジする気があるか」と社長面接で聞いた「俺はやりたいんだ」という本田宗一郎の返事を聞いて、入社を決心したという。

1963年にホンダからスポーツカーが発売されたとき、何故か待望のS360はなく、S500だけだった。その原因はホンダの計画変更ではなく、通産の特振法にあった。

特振法とは、外車の自由化がせまり、まだひ弱な日本の乗用車メーカーが生き残るには、政府主導で特定業者を選定するしかない。そうなると製造実績がない会社は新規参入ができない。

そんな法案に対抗してホンダは、500cc乗用車(登録車)ということで駆け込み実績を作る作戦に出たのである。が、実際には、法案が陽の目を見ることはなく、早とちりとなるが。

市販されたS500は531cc44馬力でショーモデルより強力になっていたが、少し神経質なところがあり、改善のために低速トルクの強化を図って生まれたのがS600だったのである。

私のS600は結構活躍してくれた。伊豆長岡でのヒルクライム優勝、後年環境長官になる中村正三郎のMGに負けて二位で悔しかった谷田部タイムトライアルなどが、特に想い出に残っている。

ホンダでレストアされたS600に乗りご機嫌の筆者

いずれにしても、ホンダの四輪車市場進出はホンダS500でなされ、軽トラックのホンダT360、そして次のN360で軽市場を制覇、着々と今日のホンダを形成していくのである。

そしてS500のエンジンは量産自動車用では本邦初登場のDOHCで、また軽トラT360もDOHCだったから、異色の軽自動車と云うことが出来よう。