【車屋四六】覆水(ふくすい)盆に返らず・鈴鹿で反省

コラム・特集 車屋四六

私、平成24年8月28日の日本産業経済新聞掲載“鈴鹿名勝負支え50年”の記事を読み、反省中である。40年ほど前、鈴鹿サーキットの建設動機を聞いたら「自動車レースは楽しい・日本でも見せたい」との本田宗一郎の希望だった、が広報の答えだった。

その動機が、実は間違いだと日経を読んで知ったのだ。
覆水盆に返らずとは正にこのこと。(盆からこぼれた水は戻れない=取り返しがつかないこと)

さて、ホンダは58年発売のスーパーカブが世界的大ヒット作となり、鈴鹿に25万坪の新工場建設を決定した。
そして59年「伝統の英国マン島TTレースに出る」と宣言するが、我々野次馬どもは「社長の戯れ言・先進国から見りゃ田舎のオートバイ、勝つわきゃないだろう」と笑っていた。

さて、工場用地探し、レース場建設を任されたのが塩崎定夫。日経コラムの執筆者。その塩崎の記事だから正しかろう。マン島出場宣言、そして「俺は世界一になりたい・それには国内にレース場が欲しい」これが鈴鹿サーキット建設、真の動機だったと云う。

で、塩崎は早速海外レース場の視察に出掛けた。そんな見聞知識を糧に我流でコース設計を終えたが「一周22㎞のニュルブルグリングは行った車が長時間帰ってこない・6㎞位なら2~3分だから見る方も楽しい」加えて「田んぼと畑は壊すな」が社長命だった。

「誰も知らない日本人塩崎設計では世界の一流は来なかろう外国人を連れてこい」と云われ、オランダのサーキットを設計したフーゲンホルツを呼んで監修して貰ったと記事にある。
コース建設が始まると、鈴鹿住民の反対運動が盛り上がった。
サーキットという言葉が未知の時代、自動車が競争するとなれば、誰でも知っているのがオートレース場だったのだ。

ギャンブルならば当然治安が悪くなると思うのは当然の理屈。で「自動車が競争するがテストコースと同じようなもの」博打レースではないというような説明を繰り返し、納得させたと云う。

63年の第一回日本グランプリが鈴鹿サーキットのこけら落としと思っている人が多い。が、サーキット完成は62年(昭37)9月。
当時の日本、二輪含みの全国保有台数も500万台を越え、そろそろ自家用車という気分も芽生え、娘達は嫁入り希望条件として「家付きカー付きババア抜き」などと嘯き始めた頃でもあった。
で、鈴鹿のこけら落としは、GP開催の前年、サーキット完成年開催の、国際オートバイレース全日本選手権だった。

私の鈴鹿サーキットは、第一回日本GPから始まった。
当時の愛車キャデラック75型リムジンで、鍋島俊隆、石坂信雄、長沢時弥夫妻と共に夜中に東京を出発した。
東名など高速道路など皆無の時代、五反田から横浜、箱根、浜松と下道をひたすら走って、翌朝サーキットにたどり着いた。
畑の中の田舎道の遠くに巨大な建造物、それがサーキットだが、その前の大駐車場は未だ土のまま。…駐車してから一寝入り。

鍋島さんの友、西郷さんが手配してくれた観客席はメインスタンドの真下で、見物には最上の場所だった。
が、レースが始まっても、期待した興奮状態にはなれない。
原因は、私自身が日本スポーツカークラブその他で、既にジムカーナ、ヒルクライム、草レースなどを走り、音やスピードには慣れっこになっていたのがいけなかったようだ。

が、本番の真打ちグランプリが始まると目が覚めた。滑るように走るロータスの矢のような早さに呆れ、ジャガーDタイプやフェラーリ、アストンマーチンのド迫力の排気音、際立つハンドルさばきのポルシェカレラ、どれもが初体験の凄さだった。

ロータス23:第一回GP優勝車と同型でドイツのロッソビアンコ自動車博物館で撮影したもの

一周5.807㎞のサーキットは高低差があり、国際的にも難易度の高いコースで、二輪の世界選手権→最後はF1の開催で出場の世界一流選手が「難しいが面白い」と口を揃え褒めている。

第一回日本GPでモータースポーツの虜になったのは私だけではなく、見物客全員だったろう。一方日本メーカー、宣伝効果が期待以上と判り、翌年からはファクトリー体勢で参加するから、前座レースでも、年ごとに迫力が増し面白くなった。

一方、私は第二回も見物人だったが、三回目からは役員として活動を始めた。計時一級ライセンス取得でGPその他の計時委員に。JAFスポーツ委員会に所属して、GP特別規則書作成委員など、また各地で開催されるJAF公認競技の審査委員など、どっぷりとモータースポーツにはまり込んでいったのである。(写真右:1968年日本GPでは特別規則書作成委員として支給されたワッペンをブレザーの胸に仕事についた)