【車屋四六】自動車用ヘルメットの歴史

コラム・特集 車屋四六

86年(昭61)7月5日、原チャリもヘルメットが義務付けられた。
その前日、高校生長男のホンダ・スペイシーを借りて、麻布→芝公園→皇居一周∽麻布と、最後のノーヘルドライブを楽しんだ。
途中三度ほど笛を吹かれて交番へ「何故ノーヘル?」「明日からでしょう」「知ってるならしようがない」ということで無罪放免。

商売柄不謹慎を承知で、ノーヘルで走るオートバイは楽しく開放的乗り物だった。私がオートバイに乗っていた頃の1950年代はヘルメットなどというものは馴染みない帽子だった。

近頃ヘルメットと云えばフルフェイスが常識だが、グランプリが鈴鹿で始まった頃は、ひさしが付いて耳まで掩うタイプ。更にさかのぼれば、お椀を頭にかぶり顎ひもで留める程度のものだった。

WWⅡ以前ともなれば、革の飛行帽に飛行眼鏡(ゴーグル)というのが定番スタイル。私学生時代の昭和30年前後、金ボタン黒の詰め襟学生服で学生帽の顎ひもを締めて乗ったりしたものである。

そんな昔はさておき、私がクルマ競争の楽しさに目覚めた頃は、もっぱらヒサシ型だった。そのヒサシ型を集めてドライバーズミーティングの写真(上)は、船橋サーキットのもの。
左服は溝口武寿競技長(NDC東京会員)。溝口さんは、貴乃花の双子山部屋のある中野新橋のお医者さんだった。スカイライン2000GTが猛威を振るっていた頃だから、65年頃だろう。

もう一枚の写真(下)はヒサシ型の湊謙吾SCCN元会長。船橋サーキットでジムカーナスタート直前の緊張タイム。湊さんは元JAFスポーツ委員長でNDC東京会員。本業は湊製薬の社長さん。
湊さんは国際的に顔が広く、ピエロタルフィなどが来ると我々を自宅に呼んでくれたりしたものである。

初代日産シルビアに乗りジムカーナスタート直前の湊謙吾。黎明期の日本モータースポーツに貢献した人物の一人だ

近頃では、日本製ヘルメットも国際的に信用を得ているが、当時はようやく信用が出始めた頃。現在アライは有名ブランドだが、いずれにしても日本のレース発展と共に成長したものである。

もっともアライという会社、感心するほどの歴史を持つ会社で、内山駒吉が日本初の自動車を完成した1902年に、東京京橋に開店した新井帽子店が始まりだそうだ。

新井帽子店は、1936年に鉄兜(てつかぶと)の製造を始めた。こじつければ、それがヘルメット業界への第一歩である。
そしてヘルメットの内側を発泡スチロールで裏打ち、52年に警察に納入したのが自動車運転者用ヘルメット製造の始まりらしい。
52年というと、戦時中からのガソリン統制が撤廃され、アルバイトサロンなるものが登場した頃である。

が、自動車競走用の日本初は、解禁になったばかりの公営ギャンブル、川口オートレースのために造られたものだった。
が、その頃は我々が云う自動車レースなどない時代だから、やはり特殊な頭部保護用の帽子でしかなかった。

待てば海路の日和(ひより)とは良く云ったもので、時節到来は鉄腕アトムがTVブラウン管の中を縦横に飛び回る63年に始まった。日本グランプリである。
で、特殊な自動車帽子は一般的自動車帽子=自動車用ヘルメットに変身したのである。

一度灯が点いたモータースポーツ熱により、各地でレースが開催され、ジムカーナやラリーも日常的になり、レーシングドライバーのヘルメット姿は憧れの対象となるまでに成長する。

一方、50ccの原チャリまで含むオートバイのヘルメット着用義務化も、これに拍車を掛けて、頭部保護用帽子は特赦な帽子から、見慣れた帽子に変わっていったのである。

昭和の名優夏川静江の娘夏川かおる(愛車フェアレディー2000と):血筋は争えぬと云うが彼女もTV映画で活躍の名脇役。ひと頃自動車レースに夢中だった