【車屋四六】横浜バイパス開通の頃

コラム・特集 車屋四六

世界初を連発するソニーから、世界初トランジスタTV(8インチ)が発売された60年(昭35)に、横浜バイパスは開通した。
で、珍しもの好きの野次馬らしく早速出掛けた。当時はヘビースモーカーだから、登場したばかりの日本初ロングサイズのハイライトを、くわえ煙草で走っていたことだろう。

当時、東海道を下るとき自家用車族はトラックで混む品川からの第一京浜国道は避け、五反田からの第二京浜へという人が多かった。が、30年代も半ばになると、そこも第二も混み始め、馴れた人達は中原街道に回りはじめた。
洗足池から丸子橋、慶応義塾の在る日吉を過ぎ、綱島の先を左折して暫く走って通称メガネ橋の袂で第二京浜と合流する。
第二京浜が終わると横浜で左折して第一京浜に合流、横浜駅前を通過するというのが、それまでの通い慣れた東海道だった。

が、青木橋手前で、二股路を右方向で、新しく開通の全長約9㎞の横浜バイパスにたどりつく。前にクラウン後に62年型シボレーの写真は、料金所から戸塚に向かう方向で、中央分離帯がないので、反対車線に出て追い越しが可能だった。

70円通行券:昭和38年11月23日は勤労感謝の日なのに道は閑散

70円の通行券は昭和38年だが、開通時はもっと安かったかもしれないが憶えていない。道の両側に、畑や農家が点在して、のどかなドライブが楽しめた。

やがて吉田茂首相の通称ワンマン道路にたどりつく。そこは大磯の屋敷に帰る首相が、開かずの踏切と悪評高い東海道線戸塚踏切を避けるため、鶴の一声で生まれた戸塚バイパスだった。
その頃だが、真鶴有料道路も完成した。

東京から出発する各街道は戦前の舗装だから、路面は大荒れで凸凹、乗り心地が悪いばかりでなく、走れば舞い上がる砂埃、それが当たり前で何とも思わなかった。

が、紹介した三つの有料道路は、石も跳ねず埃も立たず、コンクリート舗装が快適だった。で、快適道路が三本も使える真鶴には良く行った。未だ珍しかったスキューバダイビングのために。
当時は、単純にアクアラングをする、と動詞に使っていた。

現在、真鶴半島先端の三つ石への道は両側に食べ物屋がズラリだが、当時はウニ屋と呼ぶ店が一軒、釣りの餌などを売っていた。
今では犬猿の仲だが、当時のダイバーは漁師や海女と仲良しで、鮑やサザエの取れる所を教わったり、時には漁船が落とした錨を拾ってやったり、和気あいあいの仲だった。

潜水が終わると、たしか後藤さんという人のダイビングセンターに荷物を預けて、街の銭湯で一休みしたものである。
後藤さんは、その頃はやりはじめたGパンが似合う人だった。(写真右:真鶴で5kgのハタを射止めてご機嫌:後向きは後日潜水界で第一人者となる益田一(スキューバダイビングは私が教えた))

当時、完全防水時計は高価なロレックスだが、シチズンからパラウオーターなる防水腕時計が登場、が、日本初完全防水時計はセイコーで50m保証、早速買ってみた。
が、水深20~30mで水が入る。が、何度修理しても50mOKですと返ってくる。やがて原因がわかる。試験合格でも、水圧が掛かった状態で岩やボンベなど硬い物に当たると、ガラスがひずんで浸水することが判って、めでたしめでたしとなる。

さて当時の道路は最悪と書いたが、敗戦貧乏の日本では経済再建優先で道路予算などなく、戦争前の舗装は壊れ荒れ放題なのだ。
でも軍用目的の第二京浜は舗装が厚く状態が良かった。ちなみ、五反田~横浜まで、交差点は信号機なしのロータリー式だった。

とにかく三本の有料道路以外は凸凹、ワンマン道路を過ぎた大磯の松並木などは速度を落とさなければ飛んだり跳ねたり、石を跳ね、舞い上がる砂埃がバックミラー一杯に写っていた。

小田原から真鶴も工事中か未舗装、湯河原から先の大観山経由箱根、また熱海までは、悪路ばかりか、すれ違いに気を使う細い道、いまなら山道と呼んだほうが良いくらいの道だった。

が、道が悪くとも走っている車が少ない。で、太いタイヤのアメ車なら、凸凹かまわずスッ飛ばせば平均速度が上がり、箱根まで二時間で行ったこともあった。