【車屋四六】タクシードラマルヌ物語って知ってる?

コラム・特集 車屋四六

自動車会社ルノーは1898年創業。世界でも老舗中の老舗だ。そのルノーから歴史に名を残す8CVが誕生したのは、東郷元帥が日本海海戦でロシア艦隊に大勝した明治38年=1905年のこと。

8CVは丈夫で長持ちメンテナンス容易、そして値段が安かったから金持ち御用達だった自動車が、庶民にも買えるようになったのが大ヒットの原因。いわばフランス版T型フォードである。

そんな8Cに目を付けたのがパリ辻馬車会社。当時としては天文学的数字ともいえる1500台の8CVを発注したのである。

会社は、近い将来馬車の時代が終わると予測したのだろう。

ちなみに8CVは、水冷二気筒1060ccで8馬力、3MTで65km/h。そして当時としては画期的タクシーメーターを装備して、距離に応じた料金体系をとり、これも人気上昇の一因となる。

その評判はイギリスにも伝わり、1907年にはロンドンも8Cタクシーが走り出す。これを手始めに8CVの輸出が始まる。

ルノーは基本構造を1920年代後半まで変えず、滑り台風フロントノーズもそのまま使われ続けたので、それがトレードマークのようになり、各国の街を走り、宣伝にも一役買った。

第一次世界大戦が始まると、兵器生産転向で自動車など造れずに空白期間が生まれるが、戦後再開しても滑り台はそのまま。が、ヘッドランプがアセチレン型から電球型になった。

第一次世界大戦前のルノー 前照灯や車幅灯はアセチレン型

第一次世界大戦は1914年(大正3)にオーストリア皇太子がサラエボで暗殺されたのが引き金で始まった。そしてタクシードラマルヌと呼ぶ有名な物語も始まるのである。

8月1日ロシアに、3日にフランスに、ドイツが宣戦布告する。4日にはイギリスがドイツに宣戦布告、なんと23日には日本もドイツに宣戦布告する。

当時はイギリスと仲良し時代だったから、日露戦争で種々便宜を図ってくれた義理へのお返しだったのかもしれない。

日本軍はヨーロッパ戦線には参戦しなかったが、ドイツ支配下の青島を空襲、11月8日には占領する。もっとも個人的には留学中の滋野男爵が参戦、エースパイロットとして気を吐いた。

いずれにしても連合軍勝利のお陰で、日本は当時ドイツ統治下のサイパン島を含む南洋諸島を手に入れる。が、25年後にはWWⅡに負けて、手放すことになるのだが。

ブレゲー偵察機:ルノー300馬力で高速を誇り戦線の奥深く飛行して情報収集

話を元に戻すと、破竹の勢いで進軍するドイツ軍は、9月5日にはフランスのマルヌに到達、パリまで50kmとせまった。

迎え撃つフランス軍は、急遽パリに1万2000の歩兵を集結させたまでは良かったが、はたと困った。前線への輸送手段がない。鉄道では6000名が限度だから、半分しか運べない。

そこで立ち上がったのが、例のパリ辻馬車会社。9月7日「俺はやるぞ」と志願したタクシードライバーが600人。

で、武装兵5名を乗せた600台のタクシーが夜陰に乗じて前線に。

無事兵隊を届けたタクシーは、休む間もなくパリにとって返し、またもや600人を載せて前線へ。こうして鉄道と合わせて1万2000名が前線に集結した。

一夜明けてフランス軍はドイツ軍を包囲、優位に戦いを進めて敵を敗退させる。これが、フランス軍反撃の引き金となり、勝利への口火となったのである。

“TAXI de la MARUNU”と後の世までの語りぐさとなる、物語が生まれたのである。ちなみにフランス軍というのは律儀なようで、後でタクシー代金を精算したと聞いている。

ルノーの兵器では、ルノー製80馬力搭載のファルマン偵察機が大活躍、V12気筒300馬力搭載のブレゲー戦闘機も大活躍、大戦末期にはルノー製軽戦車がドイツ領になだれ込んだ。