【車屋四六】ルノー六輪車が帝国陸軍に

コラム・特集 車屋四六

私の知る身近なルノーの最古は大歌手淡谷のり子の車で、後に藤山一郎が譲り受けた。もちろん第二次世界大戦前の話だが、藤山一郎関連の記事を書いたとき知った。本稿で取り上げる、滑り台のような鼻面の車だった。

第二次世界大戦後の貧乏国日本は外貨不足で外国車は輸入禁止。が、昭和20年代末、欧米から少量輸入した車の抽選があり、4CVが当たった家の同級生に乗せてもらったのが私のルノーの初体験だった。

そのあと、日野自動車との技術提携で4CVのライセンス生産が始まると、日本でルノーが珍しくなくなった。それが発展して、純国産乗用車コンテッサに繋がるのは御承知の通り。

ルノー初期の豪華なリムジン/モンタギュー博物館蔵:運転は英国王室王位継承権を持つモンタギュー卿自身

一方戦後本国のルノーは、4CVから、6→8→16シリーズと進化する話は前回書いたが、1994年にJAXから輸入権を得たヤナセがフランスモーターを設立、各種輸入した中で目立ったのがトゥインゴ。

初対面で「なんだ玩具みたい」と思ったが、その珍しさで人気があり、なかなか試乗できなかった。乗れたのはRJCカー・オブ・ザ・イヤーにノミネートされ、谷田部試験場のテストデイだった。

乗ってみれば、可愛さとは裏腹に本格的乗用車だと改めて見直し、クラッチ無し、実質ATの五速MTの少々間延びのシフトタイミングが気になったが、全体の高い完成度には感心したものである。

さて、新しい時代の話しはさておき、私の手元にある軍事郵便が今回の話題。

麻布神谷町の骨董屋で求めた一束の絵はがきの中にあったものだ。

この葉書、自動車以外にも興味を覚えた。壱銭五厘切手の絵はがきの、1930年(昭5)7月28日消印の差出人が、私が6年間通った小学校の卒業生だったから。

麻布尋常小学校を卒業して何年か経ってから、母校の恩師宛に戦車隊に入隊したことの近況報告だった。

麻布小学校は、学習院が生まれる前は宮様や華族が通っていたようで、戦争中は、日露戦争の旅順攻略で戦死した乃木将軍の子供達兄弟が先輩なのを、誇らしげに自慢したものである。

さて、絵はがきには六輪自動車ルノーとある。右上には“馬力十二、自重二頓(トン)、最大速度粁/時四五、用途:不良路面又は路外の地に使用”とあり、これでおおよその性能が推察できよう。

不良路面とは悪路、そして路外というのはオフロードの意。また今なら十二馬力。最大速度時速45kmであろう。

別に陸軍自動車学校酒保とある。酒保とは隊(学)内の小さなコンビニと思えばいいだろう。葉書の主は自動車学校に入学、酒保で葉書を買い、母校の恩師に近況報告を書いたようだ。

サハラ砂漠横断で有名なシトロエン:後輪は第二次世界大戦以前我々が無限軌道と呼んだキャタピラー/2008年パリ郊外シトロエン収蔵庫で撮影

この車、正式にはルノー14CV(生産は1920年代)。フロントにウインチを装備、後二軸駆動でタイヤは六輪全部がダブルタイヤ。

「東京から明治が消えた」と云われた関東大震災の1923年(大正12年)に、2400kmの長丁場、アルジェリアからニジェール間、サハラ砂漠横断で有名になったのが、この14CV。

1920年代のフランスでは冒険旅行が流行して、幾つも快挙が生まれたが、後輪キャタピラーのシトロエンがサハラ砂漠を横断したのも知られた話しである。

悪路踏破で知られるジープは、米陸軍が四駆の重要性に気づいて開発、実戦投入が1941年だが、くろがね四起、いすゞ四駆指揮官車などを、1930年代既に開発させた日本陸軍は、欧米に遅れを取ることの常習犯的日本軍としては先見の明があったと云える。

さらに、絵はがきを見れば、1920年代既に悪路踏破に目を向けていたことが判るのである。