【車屋四六】VW・K70と村山試験場

コラム・特集 車屋四六

さいきん見られなくなったのは、テストコースでの新車試乗レポートだが、盛んな頃は谷田部高速自動車試験場がよく登場した。
そこは私がホンダS600で出場したJAF公認ジムーカーナ開催が65年2月だから、完成はその直前のはずである。

日本自動車研究所が筑波学園都市に完成する前は、東村山の工業技術院機械試験場の試験路が、試乗レポートを書く我々ジャーナリストの舞台であった。

時々、西武多摩湖線電車が試験車と併走するのだから、機密保持とはまるで縁がない。わずか400mの直線路を結ぶ200mの円弧は、東側がフラット、西側はバンクが付いているが、限界速度が100㎞ほどだから、今なら使いものにならない。

でも当時はこれで充分。不安定な操安性の乗用車でも、無理をすれば110㎞くらいなら、何とか頑張ってバンクを通過できた。
ロータスヨーロッパが試乗中バンクから飛びだして大破、インポーターからCG誌が買い取らされたと噂を聞いたことがあった。

K70開発のベースになったNSU―Ro80:NSUのロータリーエンジンは使わずVWは水冷直四を開発搭載

戦前造られた試験路らしく、荒れた路面の目地には雑草が、そんなところを走るVW・K70の写真が見つかった。
K70の誕生は70(昭45)年。この頃のVW社は一世風靡したビートルの時代が終わり、次モデルの開発に暗中模索を繰り返していた。あまりに強烈なビートルの印象が付きまとうからだった

それは74年にゴルフが登場するまで続くのである。その間に61年VW1500、67年VW1600TL、69年ポルシェと共同開発の914、73年パサート等々、どれも起死回生には程遠かった。

ヤナセ輸入のVW1500。ホワイトサイドウオール・タイヤで高級感を

御承知のように、VWの印象はRRだったが、K70はVW初の水冷エンジンで前置、さらに前輪駆動という、VWとしては前代未聞の形式だった。

それには訳がある。FWDには戦前から蓄積のあるNSUのRo80をベースに開発し、将来を見越してFWD技術を習得し、それをゴルフ開発に役立てたのであろう。

70年誕生当時は75&90馬力だったが、ヤナセ輸入写真の72年型70Lは100馬力、最高速度180㎞。全長4485㎜・車重1070kg。直四OHCはツインキャブ100馬力/6200回転。
ステアリングはラック&ピニオンで4MTのシフトレバーが床から武骨に生えていた。当時は運転席シートベルトが自慢の種。ブレーキは未だ四輪ドラムだが、165SR14ラジアルタイヤも自慢の種。

ゴルフから較べれば、かなり大柄で、しかもFWDらしく、キャビンが広く、プロペラシャフトがないほぼ平らな床、そして大きなトランクに感心したのを憶えている。

VW70誕生の昭和35年、日本は公害元年。杉並で女子高生40人が倒れて病院に。で、東京都の公害研が{新型公害発生}と発表。
それが光化学スモッグというやつで、ロサンゼルスに次いで世界で二番目の発生、そして注意報だったのである。

公害は、光化学スモックだけはなかった。
東京牛込柳町の鉛公害が自動車によるものと発表されて、HC規制が登場。還元触媒取り付けが義務化された。

さらに海の向こうでは、米議会上下院でマスキー法案が可決して世界中を巻き込んでの受難が始まるのも70年だった。