【車屋四六】パリのタクシー メーター料金で兵隊を戦場に

コラム・特集 車屋四六

第一次世界大戦開始頃の代表的航空エンジンの一つ、ルローンの出力は80~110馬力だった。第二次世界大戦で登場する航空エンジンで、米国プラット&ホイットニー社のワスプ・メージャー型は3500馬力。僅か30年足らずで350倍程に、毎年130馬力ずつ成長していたことになる。

ちなみにワスプ・メージャーは、115-145オクタンガソリン仕様。空冷四重星形28気筒、気筒容積ナント7万1400Lという巨大エンジンだった。

が、大馬力エンジンは、英国にだってある。ロールスロイス・イーグル水冷H型24気筒は、9万2200Lで3500馬力。片や日本でもライセンス生産されたダイムラーベンツDB601の発展型は、2850馬力にまで成長している。

絵に描いた餅と云えばそれまでだが、中島飛行機で誉2000馬力の開発者・中川良一(元日産副社長)が、アメリカ本土爆撃の富嶽(ふがく)用に開発の空冷乱列星形36気筒は、9万6400Lで5000馬力。戦況逼迫で富嶽開発は中止されたが、完成直前だったと云われている。

さて、WWI中、連合軍、ドイツ軍でのバイクの活躍は何度か紹介した。ドイツ軍考案の、サイドカーに機関銃は、WWIIでも活躍する程のアイディアだったが、さすがアメリカは自動車大国らしく、ジープに機関銃だった。

一方、自動車の方では装甲車。その世界初が英国海軍というのは、何ともおかしな話だ。が、その威力が認められると、ロールスロイスやランチェスターの装甲車が続々と戦場に送られた。

で、観察すると、各国の装甲車は、どれもが高級車ベースで仕立てられていた。ベルギー軍ではミネルバ、ドイツ軍ではやベンツというようにだ。

その理由は、説明を聞けば簡単明解。厚い装甲をまとい、機関銃や大砲を搭載すれば、がっちりと重くなる。そんな図体に必要なのは飛びきり頑丈なシャシーと強力なエンジンだったのだ。映画になったアラビアのロレンス愛用の装甲車は、ロールスロイス。

もちろんトラックも戦争には必需品だった。例えば、造っていたのでは間に合わぬ、と英軍は、ロンドンの市バス1000台を戦線に送り込み、兵隊輸送で活躍させたそうだ。

兵員輸送に活躍したのは、バスやトラックばかりではない。ドイツ軍がパリに迫って天下分け目の戦いの直前、仏軍ガリニ将軍は「敵の弱点は背後にある」と指摘したが、完全武装の兵隊6000人を急速に運ぶ手段がない。で、ひらめいたのがタクシー。

将軍はパリ中から600台ものタクシーを集めて、ドイツ軍の背後に徹夜でピストン輸送。結果は上々。が、なんと借り上げたタクシーは全車メーター料金で走り、しかも危険手当として2.5パーセントのチップも戴いたというのだから、フランス軍とはイキなもの。そのタクシーはルノーだったそうだ。

ルノータクシー:パリのタクシー600台で6000人を一夜のうちに敵陣の背後マルクに送り込んだ話は、タクシー・ド・ラ・マルクの名で未だに伝えられている

さて、自動車には入らないのだろうが、1915年暮れに英国フォスター社がキャタピラー付き戦車の開発に成功。明けて1916年、激戦中のソンムの戦場に、突然50台の戦車が現れた。これには、兵器造りの天才ドイツ軍もビックリ仰天だったろう。

その戦車を戦場に送る時、英軍は秘密の正体がばれないように、貨車や船で輸送の荷物タグに「水タンク」と記入したそうだ。以後、戦車のことをタンクと呼ぶようになり、戦車の代名詞になる。

ヨーロッパ中を驚かせたタンクは、そのイメージを商品化して多くの商品が生まれたが、今に残るのがカルティエの“タンク”シリーズである。

飛行船と潜水艦、良く見れば姿が似ている。空気でも水でも抵抗を減らす努力をすると、こんな姿になるのだ。また、同じ頃に生まれて、比重の差で浮き沈みをすることも似ている。

サントスデュモンの注文で作った航空用腕時計と同様、WWIで英軍に登場したタンクのショックを未だに伝え、売れてる時計カルティエ・タンクシリーズ

が、戦争では常に飛行船が有利だった。WWI中、Uボートが狙う連合軍輸送船団で、飛行船の護衛付きなら一隻も食われなかったのだから、空からの監視は効果的だったのだ。第2ラウンドのWWIIでも、まだ飛行船の御利益は消えることなく、ドイツのUボートは船団に近づけなかったそうだ。

ドイツが生んだ飛行船でやられる、そんなことをドイツ軍が許すはずもなく、飛行船で世界初の戦略空軍を組織した。1910年頃ツェッペリン飛行船は、信頼できる200馬力級エンジンがなかった。で、登場するのがマイバッハ。1911年、飛行船用エンジンを完成。それで飛行船LZ10の性能は完璧になった。

で、世界初の航空輸送会社DELAGにより、ツェッペリン飛行船団が誕生し活躍を始めるが、WWI開戦でドイツ軍に編入させられ、1915年カイゼル皇帝がロンドン空襲を命令する。

ロンドン初空襲は、ヴェンケ船長のLZ10号機で、上空3000mから爆弾投下。当時の高射砲では3000mまで届かず、また戦闘機がふらふら上がってくる頃には、爆撃終了、ちょっと高度を上げて「はいサヨナラ」という安全極まりないという、珍しい空襲だった。

で、英軍も兵器の改良に努力する。やがて高射砲が届くようになり、馬力を増した戦闘機も間に合うようになる。が、ドイツも黙っちゃいない。で、ハイトクライマーと呼ぶ飛行船を開発。

登場した飛行船の飛行高度は6000m。敵が来ない、弾も届かない高い空を、ゆうゆうと飛んできて、ゆうゆうと爆撃して、ゆうゆうと帰っていくが、英軍は手も足も出なかった。が、晴れた日は良いが、雲がでる日もある。雲上は安全だが、爆撃目標が見えない。で、いい加減な見当で爆弾を落とす、雲上爆撃というやつだ。

これには英国人が慌てた。見えない天空からの爆撃ではない。目見当だから爆弾が畑に落ちる。で「ドイツ軍はイギリス中の野菜を爆撃して兵糧攻めにする気だ」と早とちりしたのである。

雲上爆撃の命中率の悪さにはドイツ軍も困った。で、考えたのがゴンドラ作戦。籐製の駕籠に兵隊を乗せて、雲の下までロープで吊り下げ、眼下の様子を電話で報告という新手段だった。いうなれば人間レーダーというグッドアイディア。

意外や、ゴンドラ搭乗は人気が出て志願兵続出。ドイツの軍人魂は大したものと思ったら、さにあらず。水素パンパンの飛行船では禁止の煙草が、ゴンドラでは吸えたのである。